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  9月5日号社説
 

アテネの感動を未来へ

 多くの感動を残してアテネ五輪が閉幕した。活躍したアスリートたちは、口々に家族や仲間、監督・コーチ、そして国民への感謝の言葉を語っていた。人と人との強い絆が、彼らに勝利をもたらしたことを実感しているからだろう。個人化、孤立化を深め、家族も地域も共同体としての機能を失いつつある今日において、五輪はその大切さを思い出させてくれた。

3年目の9・11
 間もなく三年目の九月十一日がやってくるが、テロはこうした人と人とのつながりを一方的に暴力で断ち切るという意味でも、絶対に許すことができない。幸い、五輪がテロに見舞われることはなかったが、ロシアでは飛行機が二機、ほぼ同時刻に墜落し、残骸から自爆テロの痕跡が発見された。この事件でも、かけがえのない絆を断ち切られた多くの人たちがいたはずだ。
 五輪の三カ月前に再編成され、外国で練習してきたイラクの男子サッカーチームが、予想外の活躍でベスト8に進出したのには、世界が驚いた。彼らに同情は、もう必要なかった。十八人はイスラム教スンニ派・シーア派、クルド人から成り、宗派と民族を超えたチーム。平和が戻ったときのイラクの素晴らしさを、力強くアピールしていた。
 私たちはこの世に生きる限り、他者に対して恨みやねたみを持つのを避けることはできない。問題は、それを不正な方法で解決しようとすることだ。それを防ぐには最低限のルールを定め、それを守らせる強制力を用意しなければならない。政治の最も重要な役割はそこにある。しかし、宗教はそれを超えた世界を示す役割を持つ。
 五輪の最中、京都国立博物館で開かれていた展覧会「神々の美の世界―京都の神道美術」を見た。最初に展示されていた神の像は、男神も女神も怒りの形相であった。古代、日本の神は怒る存在であり、人々はその神を祀ることで、神の怒りに触れないよう心を砕いてきた。古代日本人の「カミ」に一番近い言葉は雷だという話を聞いたことがある。ここで大切なのは「恐れ」であり、それが日本人の宗教心のベースとなっている。
 恐ろしい神であるからこそ、それを祀る人たちには一転して、周りの悪を鎮めてくれる頼もしい守り神になる。信仰には、こうした逆説がいつの時代にもあるようだ。
 縄文時代においては山や木、岩、滝など自然そのものが信仰の対象であり、社が建てられるようになるのは、多くの渡来人が定住するようになってからだという。社叢学会理事長で亀岡・小幡神社宮司の上田正昭京都大学名誉教授は、「神道は一神教でも多神教でもなく汎神教、万物生命信仰である」と語っている。そして、一神教がもたらした現代の対立を超えて行く道がそこにあるとする。

被造物意識
 日本人の優越心をくすぐられ、納得してしまいそうになるのだが、一方で、そう簡単なことではないだろうという気持ちも残る。本紙の初代代表である故松下正寿元立教大学総長は、三代目の聖公会信徒にして仏教にも造詣が深かった。その松下代表がよく、「我々の任務はヘブライズムによる被造物意識と東洋的自然観を調和させ、再び大宇宙と和解することだ」という話をしていた。被造物意識とは絶対的な創造主の前に頭を垂れる姿勢であり、日本のことを考えるとき、その欠如がいつも念頭にあったのであろう。
 当時はよく理解できなかったのだが、今になってその重要性が少し分かり始めた。そして、京都で怒りの神々に出会い、これは旧約の神ではないかと思った。この土のかけらからでもおまえをつくることができると言い、かつ怒り、ねたむ神である。そうであれば、怒る神々を通して、私たちも被造物意識に近づくことができるのではないか。
 アテネの感動にひたって筆を滑らせると、人類が宗教・宗派を超えて、同じ根源を持ち、同じ地球に暮らしているという絆を感じ合える道がそこから開かれてくる、と言えないか。二十一世の遅くない時期にそうなると信じたい。

クョスコニョ    [1] 
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