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  10月5日号社説
 

民主主義憲法は宗教重視

 九月十四日、本紙講演会で杉原誠四郎武蔵野大学教授が話した、「民主主義憲法の理念は宗教重視である」とのくだりに目からうろこの思いがした。「憲法九条が固有の自衛権までも否定するものではないのと同じ」との主張には説得力がある。宗教と防衛という、まさに人間の心と体の安全を守る手立てとして、両者は同じ論理で語られなければならない。

政治と教会の分離
 米国で法律を学んだ本紙初代代表の故松下正寿元立教大学総長は、「政教分離は政治と教会の分離であって、宗教との分離ではない」と口癖のように語っていた。確かに、米国憲法には「ステートとチャーチの分離」と書かれている。建国当時の米国はピューリタンのように宗教的情熱の強い人たちが多く、それ故の宗派対立も厳しかった。そこで、政治は教会・教団に対して中立であるとの原則が憲法に付け加えられたのである。
 しかし、宗教なくして、信仰なくして国が成り立つとは誰も思っていない。大統領就任式がキリスト教の礼拝形式をベースに成り立ち、大統領は聖書に手を置いて宣誓するように、米国は明確な宗教国家である。
 反対に宗教否定が前提の憲法は社会主義憲法である。宗教はアヘンだとするマルクス主義の理念に基づいて国が造られたから、それも当然であろう。もっとも旧ソ連のスターリンも、ロシア正教を否定すると兵士が戦闘意欲を失うという現実から、従軍司祭の復活を認めざるを得なかった。まさに、生命の極限において宗教を必要とすることは、社会主義国においても変わらない。
 ではなぜ戦後の日本で、政教分離が宗教そのものの排除という厳しい形で理解され、宗教教育が否定されたのか。占領下にあってはマッカーサーの神道指令があったからという言い方もできようが、独立を達成し、それが消滅した後も同じ解釈のままだった。
 ここで日教組にその原因を求めるのを、杉原教授は「安易な責任転嫁にすぎない」と手厳しい。第一の責任は担当の文部官僚にあり、さらに教育学者、政治家、その背後にいる知識人にもその責を問う必要がある。現在に続く問題であるため、当然、そこには私たち自身も含まれる。戦前にもあった、もっと言えば明治以来の宗教軽視の風潮と宗教教育の欠如が、そうした官僚や知識人を生み出したのである。つまり、この問題は明治元年の神仏分離令に始まる日本の近代化、国民国家の原理そのものを問い直すことになる。
 杉原教授が共著『日本の宗教教育と宗教文化』において「日本の宗教文化」に一章を割いたのは、歴史の試練に耐えてきた宗教は文化遺産であり、その中でこそ人の心は育つという信念からであろう。とりわけ、死という人間の理解を超えた、心の極限の問題を扱ってきたのが宗教であるから、それは当然のことだ。教育からそれを排除することで、私たちが負っている損失は計り知れない。

日本的政教分離を
 歴史的、世界的な常識として民主主義憲法は宗教に親和的であるとの立場に立てば、暗雲が立ち込めたままの日本の宗教教育にも、明るい日差しが差し込んでくるように思える。どこよりもまず宗教界がその認識に立つべきである。その議論を深めていけば、実践方法での混乱や、教育基本法改正に反対などの抵抗は乗り越えられる。
 さらに宗教学に求められるのは、日本的な宗教文化に根ざした政教分離の在り方の解明であろう。日本の宗教は神道と仏教、さらには儒教の二重、三重構造になっているため、主体的・意識的な信仰心を持たず、他の宗教に対して融和的ではあるが、一見、無宗教に思えるような状況さえ生み出している。こうした風土に民主主義をいかに根付かせるかは、政治にとっても根本的な課題である。

クョスコニョ    [1] 
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