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  8月5・20日合併号社説
 

生まれ変わりの場

 京都を朝六時に出発し、電車とケーブルカーを乗り継いで、高野山に着いたのは九時だった。思ったより交通の便がいいのは、日常的に訪れる人が多いからだろう。奥の院に至る森の中には、弘法大師様の近くで眠ろうと願う無数の人たちの墓がある。個人から会社、団体まで、まさに何でもありの曼荼羅の世界。信長と光秀、秀吉と家康も仲良く近くに祀られている。朝鮮出兵した薩摩藩の島津公は、「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立していた。これが空海の包容力であろう。それぞれのお墓にお参りするため、たくさんの人々が連日やって来る。

高野山へ
 高野町には百十七の寺院があり、人口四千人のうち約千人が僧侶など寺院関係者という。
当然ながら人々の日々の暮らしがある。ちょうど第九回高野山旗西日本学児童軟式野球大会が開かれており、寺の門には「野球大会宿坊」の看板が出ていた。警察に消防、郵便局に銀行と、生活に必要な環境は整っており、「暴力団お断り」と書いたスナックまであったので、暴力団関係者もいるのだろう。さすがに、人口規模からして商店街をつぶすような大型スーパーはなかった。こうした生活空間を作り上げたのが、宗教家空海のもう一つの重要な側面だ。
 下界よりも気温が十度低い。大門の前には大型の液晶気温計が設置されており、26・2℃を表示していた。都心から新幹線で軽井沢に行くようなものだ。関西では、それがもっと手軽に、しかも意味深く実現できる。
 諸堂共通内拝券を買うと、大師教会での「授戒」がセットになっていた。案内所で「時間が決まっているから、それに合わせて行くように」と言われたが、歩き回っているうちに忘れてしまった。熱心に回って、ふと気が付くとその一枚だけがもぎ取られずに残っている。ほんの「もったいない」の気持ちから、大師教会へと取って返した。
 もちろん、正式な授戒ではない。待っていると、大講堂の裏にあるお堂に案内された。参加者は見るからに中年の男性が三人。導師役の若いお坊さんの言うままに、言葉を唱える。道内は真っ暗で、光は灯明と檀の階段の小さな灯だけ。
 やがて阿闍梨様が現れ、密教法具を使った祈祷の後、短いお話があった。堂内を暗くしているのは、仏の体内、母の胎内を想定しているから。あなたたちはここで生まれ変わったのだから、外に出たら仏の子として、少しでもいいから善いことをするように、と。観光客向けに、極めて分かりやすい内容であった。そして、一人ひとり名前を呼ばれ、段を上がって阿闍梨様から「菩薩戒牒」と書かれたお札を頂く。中には十の戒めが書かれていた。

熊野古道を歩く
 その日は田辺市に泊まり、翌朝、JR紀伊田辺駅前からバスに乗り、二時間ほど揺られて、終点の発心門王子で降りた。王子とは京都から熊野への街道沿いにおよそ百ある熊野神社の末社で、貴族らは往復三カ月の旅の途中、ここで休憩し、歌会など開いた。その発心門王子から熊野本宮大社まで約三時間、熊野古道を歩く。
 予想以上に歩きやすい山道で、周りの杉林は二十年から古くて五十年くらい。きれいに整備されていて、少しも古道らしくない。おまけに携帯電話が通じる。それも無理はなく、近くに民家があり、ここにも人々の今の生活があるのだ。
 道端に「よみがえりの道」と彫られた石柱があった。熊野にも蘇り信仰がある。古代、奥深い熊野は死の国であり、そこに行って、帰ってくることは、死からの蘇りを意味した。
 都会は生活空間から死を排除しているが、ここには「生」の中に「死」がある。そうした感覚が日本人が育んできた宗教文化なのであろう。高野山と熊野を歩いたことで、日ごろ忘れていたものを思い出したような気がした。

クョスコニョ    [1] 
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