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  9月20日号社説
 

不運を幸運に変える力

 法然上人が土佐に流されることになったのは建永二年(一二〇七)。後鳥羽上皇が寵愛していた鈴虫、松虫の二人の女房が浄土宗に引かれ、熊野詣での留守中に出家してしまったのが直接の原因だった。立腹した上皇は、二人を導いた安楽と住蓮を死罪にし、師の上人と親鸞ら高弟を流罪に処したのである。
 上人に篤く帰依していた関白九条兼実公が、七十四歳の高齢を案じて力を尽くし、兼実公の領地である讃岐の塩飽(しわく)島に送られることになった。流刑先が土佐から讃岐に変わったのは、そうした事情による。
 塩飽の地頭、高階保遠は上人一行を館に迎え、歓待した。薬湯に入った上人は大いに喜び、「極楽もかくやあるらんあら楽し はやまいらばや南無阿弥陀仏」と詠じたという。
 もっとも、法然上人にとって地方に流されることは少しも無念ではなく、かねてより「都ではかなり広まったので、地方の人たちに念仏を勧めたい」と願っていたので、むしろありがたいことと喜ばれたという。不運も幸運に変えるのが信仰の力であろう。

塩飽諸島
 その塩飽島が後に本島(ほんじま)と呼ばれるようになる。現在は香川県丸亀市に属し、瀬戸中央大橋のほぼ真ん中の西側にある。丸亀からはフェリーで三十分の距離。
 瀬戸内海でも最も狭い備讃瀬戸には二十八の島が点在し、塩飽諸島と呼ばれる。塩飽の名は、潮がぶつかり湧くようだからとも、厳しい塩作りに飽くからだともいわれる。その塩飽諸島の中心が本島だ。
 江戸時代、塩飽諸島は天領で、島民は戦があれば船をもって加わり、常には物資の輸送や長崎奉行の送迎を行った。江戸中期には北前航路に輸送船を走らせ、島は大いに繁盛したという。幕末に海軍が創設されると、塩飽の水夫たちが乗組員になり、使節訪米のため初めて太平洋を横断した咸臨丸でも活躍した。
 法然上人が本島にいたのは数カ月。その後、讃岐の小松荘(今の満濃町)に移り、四年後に許されて京都に帰った。
 それから三百七十年後の天正六年(一五七八)、徳誉道泉という僧が上人の遺跡を訪ね本島に来た。そして、上人が滞在した館の跡に寺を建て、専称寺と名付ける。ところが今から五十年ほど前から住職がいなくなり、丸亀の寿覚院に預けられていた。そこに平成十一年、住職としてやって来たのが竹田英宣師(73)である。
 竹田師は天理市・善福寺住職の時、平成二年に還暦を迎えたのを機に、法然上人ゆかりの五十四カ寺を片道七百六十キロ、念仏行脚した。その中で本島専称寺だけ無住だったので、「ご縁があればお守りしたい」と念じていたという。その縁がやってきたのは、実に不思議なめぐり合わせによる。
 竹田師は身長一七三センチ、体重八六キロの偉丈夫で、「スニーカーズ・クラブ」を主宰するほどの健康自慢だった。ところが、平成七年夏、知人の息子の医師に軽い気持ちで検査してもらったところ、腎臓に腫瘍が発見された。十月に手術を受け、成功したものの、もはや従来のような活動は不可能になった。そこで竹田師は、療養を兼ねて温暖な本島への移住を決意する。寿覚院の了解を得て、荒れ果てた専称寺を改修し、住職としてやって来たのは十一年十一月。以後、治療のため主治医のいる奈良に帰ることも多く、本島との間を往復している。

妻の力
 竹田師は「いいとこでしょう」と言うが、島の生活は不便なのに違いない。しかも檀家は五軒ほど。病気がちの住職を支えているのは夫人で、「私が一緒でないと来られないし、島の皆さんには、こんなところによく来てくれたと喜んでもらえました」と明るく笑う。「和尚は念仏一筋ですから」との言葉には頭が下がった。
 不運を幸運に変えるのが信仰の力。それに加えて竹田師が良き妻に恵まれたのは、法然上人が道を拓いた女人成仏、僧侶妻帯の恵みかもしれない。遠ざかる本島をフェリーから眺めながら、ふとそんな思いがした。

クョスコニョ    [1] 
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