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  平成17年3月5日号社説
 

きょう私は苗木を植える

 「明日、世の終わりが来るとしても、きょう私はリンゴの苗木を植える」
 この有名な言葉は、マルティン・ルターが旧約聖書ダニエル書のドイツ語訳を、ザクセンのフリードリッヒ侯に献呈した時、添えた手紙に書いたもの。聖書全体をドイツ語に訳し終わらないうちに、世の最後が来るかもしれないとの思いに打たれてのことだという。
 たとえ世の終わり、あるいは自分の最期が来ても、その時まで自分の使命を淡々と全うしていくだけ、との決意がにじんでいる。神に委ねた生き方にも思えるし、そうすれば誰かが後を継いでくれるだろうとの期待感もうかがえる。
 ダニエルは紀元前六〇〇年ごろ、バビロンの王ネブカドネザルがエルサレムを侵略した時代に生きた預言者の一人。もっともダニエル書が書かれたのは、紀元前一六〇年ころのことで、イスラエルの民がバビロン捕囚からの帰還を成したが、ギリシャに支配された影響で社会のヘレニズム化が進む中、危機感を募らせた人々が、イスラエルの伝統を回復させるために編纂したといわれている。
 ネブカドネザルが初めてユダヤ人捕虜をバビロンへ連行した時、ダニエルは王宮で仕えるための訓練を受けるユダヤ青年の一人として選ばれる。王が見た夢を言い当て、その秘密を解いた功績で高い位を与えられ、バビロニア帝国、ペルシャ帝国の閣僚にもなった。
 ダニエル書は前半が歴史書、後半が預言書になっており、世の終わりにメシアが降臨するさまを預言しているとされる。ルターはその再臨の時のことを思いながら、ダニエル書を訳したのであろう。
 
一人でできることから
 もっとも冒頭のルターの言葉を思い出したのは聖書的な終末観からではなく、地球温暖化という科学的な終末観から。それも、苗木を植えるグリーンベルト運動でノーベル平和賞を受賞したケニアの環境副大臣ワンガリ・マータイさんの話を聞いたからだ。
 マータイさんは東京で開かれたシンポジウムで、「地球温暖化のように問題があまりにも大きくて、どうすればいいのか分からないときには、これならできると思うことから始めるのが大事。一人ひとりができることをやれば非常にパワフルな運動になる」と語った。そして、それは実は伝統的な生活を見直すことになるという。その上でマータイさんは、日本語の「もったいない」に感動した、「もったいない」を世界に広めたいと述べ、日本の聴衆を喜ばせた。
 マータイさんと会見した小泉純一郎首相は、「もともとは食糧不足の時代に、親が子どもに『作った人の身になって大事に食べなさい』との意味です」と説明したそうだが、もう少し深い意味がある。
 文化庁長官の河合隼雄さんは、「(もったいないは)相当に仏教的である」として、「人間、動植物、無機物まで、すべて区別することなく同等の存在と観ずる態度によって、それは裏づけられている。お茶を飲む、花を飾る、などの日常生活に属することが、『道』として極められる。四季の移り変わりに応じて、それを賞(め)でる行事をするが、それらの行事の背後に、何かの超越的な存在を感じとっている」(「中央公論」05年2月号)と述べている。もちろん、その下には神道的な日本人の自然観がある。
 
生活に宗教性の回復を
 ルターとマータイさんに共通しているのは、今、私ができることを誠実に実行したこと。危機感をあおるだけで、自らはそのために何もしようとしないのとは正反対の立場にある。私たちも無関心な傍観者であってはならない。
 しかも、私が一人でできることは、実は先祖たちが行い、大切な教えや習慣として残してきたことである。それらが総合された日本の宗教文化の中に私たちは生きている。その意味で、一人でできることから始めるのは、日常生活に宗教性を取り戻すことにも通じている。

クョスコニョ    [1] 
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