「内なる自然」を育てる
南から北へと日本列島が桜色に染められていくこの時期、わが国は最も美しい季節を迎える。人はなぜ花を見て感動するのだろう。「花は人間が感動するように、知的存在によってデザインされている」というのが「インテリジェント・デザイン」理論。唯物論的な考えが支配的だった米国の科学界で、支持者が増えているという。 いずれにせよ、私たちの内面に花に共鳴する何かがあるのは確かなようだ。もちろん、花だけではない。自然の中で人は癒やされる。自然に共鳴する「内なる自然」を私たちは持っている。
はっけん!だいしぜん 二〇〇二年、国分寺市に開校した早稲田実業学校初等部では、教育方針に「子どもたちに自然をとりもどす。自然にはたらきかけ、生きた知識を学ぶ」を掲げ、一年生から身近な環境の中で自然を発見する授業「はっけん!だいしぜん」を毎朝二十分、実施している。 子どもたちは、通学の道端で見つけた花やカタツムリについて、「しぜんのはっぴょう」をし、それについて同級生が質問したり、先生が解説したりする。あるとき、一人の子がカタツムリの実物を持ってくると、次の日からは、ほかの子も動植物を虫かごやビニール袋に入れ、大事そうに持ってきて発表するようになった。観察、発見、感動、発表、共感の繰り返しが相乗効果を呼ぶのだろう。 一番多い質問は「どこで見つけましたか」だ。そのうち、保護者から子どもたちの帰りが遅いという問い合わせが学校に来るようになった。学校は時間通りに下校しているのにおかしいと思った先生が後を付けてみると、子どもたちはあちこち見回り、立ち止まりしながら帰るため、歩いて六、七分の駅まで三十分もかかっていた。「でも、これはいけないことなのか」と先生は考えたという。 先生は朝の自然授業に並行して、道徳の授業をトルストイの「七つの星」やレオ・バスカーリアの「葉っぱのフレディ」など命の大切さを教える童話を使って進めた。すると、やんちゃでトラブルは多いが昆虫大好きな男の子が、とても素直になるのを発見した。先生が「フレディは一人になって、どんなことを思っていたのでしょう」と聞くと、その子は「ぼくはもう死んじゃうのかな」と答えた。自分がもう葉っぱになっている。こうした経験から先生は、子どもの虫や植物への関心を「畏敬の念」の指導に結びつけることができると思ったという。ちなみに、「畏敬の念」は道徳教育の目標に掲げられながら、最も難しいとされている項目だ。
命こそ自然の叡智 子供の特性は、その中に自然性と想像(ファンタジー)性を豊かに持っていることだ。内なる自然を育てるとは、その自然性を想像性と結びつけ、自分ならではの物語を作り上げること。自然には厳しい面もあるし、物語には悲しい場面もある。それらを含めて、生きていることは楽しいという思いを蓄えることが、生きる力の基となる。 それは、大人になっても大切なことだ。自然に共感する心を持ち続けることは、むしろこれからの時代の要件でもある。自然の一部である人間が自然を離れ、人工的な環境で暮らすようになったことが、深刻な環境破壊をもたらす原因となっている。そしてより深刻なのは、私たちの内なる自然の破壊だ。 愛・地球博のテーマ「自然の叡智」に沿って言うなら、それを私たちの内なる物語として語れるようになるのが、地球の限界を知った私たちの生き方ではないか。そして、自然の叡智は「命」に凝縮されている。それ故、命への畏敬を共通した価値とすることに、世界の宗教者たちは平和への可能性を見始めているようだ。そのビジョンを抱きつつ、私たちの「内なる自然」を育てたい。
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