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  平成17年6月20日号社説
 

どんな「私の世界」を

 二度目の愛・地球博で、先回、最も印象に残った長久手日本館に足を運んだ。六月一日から新しい映像に切り替わったという全天球映像「地球の部屋」を見るためである。全球形の映像ホールにガラスの橋が架けられており、その上に立つと、自分の周り三六〇度がスクリーンになる。
 ストーリーはほぼ同じで、大空を舞う海鳥の群れが現れ、そこから海の中に飛び込むと、サンゴとそこに群がる小魚たちや、回遊魚の群泳が、視界全体に展開される。ある映像に目を留めていると、錯覚から、まるで自分の体が激しく動いているように感じる。
 やがて、映像は宇宙空間に飛び出し、満天の星空から地球を眺める自分がいた。
 
ハイテクと自然の融合
 「地球の部屋」では十二台のプロジェクターで映写され、最先端の映像調合技術で、継ぎ目のない全天球映像が実現されている。従来のドーム映像とは比較にならない高精細・高輝度・高コントラストな映像で、まさに大宇宙の中にいる自分を実感できる。
 一九八五年のつくば科学博でも大型画面やCG、二足歩行やピアノ演奏のロボットを見たが、この二十年間で技術は格段に進歩し、もっと自然に近づいた。同時に、科学博では一本の木に一万個の実を付けたトマトが話題になった。自然の力の偉大さと、それに追いつこうとして人間の技術が発達する様子を、それらは表している。
 グローバルハウスでは、ハイビジョンの十六倍の情報量を持つ「スーパーハイビジョン」で見る映像の美しさに圧倒される。入り口で待っている間、五十メートルほど向こうにあるテレビカメラが観客を撮影し、最初の映像でそれを見せてくれる。画面いっぱいに全員を映し出すのだが、一人ひとりの顔が鮮明に映っているのに驚く。愛・地球広場にある巨大映像もハイビジョンで木曽から中継された映像は、まさに臨場感あふれるもの。セミの鳴き声が、愛・地球広場に初夏の風情を運んできた。
 そうしたハイテクと自然の叡智との融合が、今回の万博のテーマである。その意味を考えながら社叢学会のシンポジウムを聞いていると、オーギュスタン・ベルク博士が言及したハイデガーの「世界内存在」という言葉に触発されるものがあった。
 簡単に言うと、人間はそれぞれが創る世界の中に存在しているという考え。地理学者のベルク博士は、生物学の最新の知見から、それを生物全般に広げていた。確かに、私たちは生まれてこの方、営々として自分なりの世界を創り上げ、その中で感じ、考え、暮らしている。つまり、私たちは目に見える身体ではなく、それを包み込んだ私の世界として生きているのである。しかも、その世界は、情報や体験、人や環境とのかかわりによって変化する。
 多くの宗教では、大宇宙と私の一体化を宗教体験の極致としている。それに至るには、難しい勉強や厳しい修行が必要だ。しかし、ハイテク映像で宇宙に投げ出されたような疑似体験をするのも、意味のあることではないか。米国の宇宙飛行士の中には、帰還後、立派な伝道師になった人もいる。もっとも、旧ソ連のガガーリンは、「どこを見回しても神はいなかった」と言ったので、思想によって感じ方は異なるのだが。
 
本当の私とは
 ここで「私」と「私の世界」と、どちらが本当の私なのか考えてみた。目に見えるのは私である。でも、その私はいつか死んでしまう。その後は何も残らないのか。いや、私の世界は、人々の記憶として残るではないか。中には何らかの業績や作品として、目に見える場合もある。
 時間的な長さからいえば、私の世界のほうが本当の私であろう。これは実体を伴わないので、物理法則に支配されることもない。もしかしたら永生するのでは…と夢を膨らませるよりも、どんな「私の世界」を創るのか、それが問題なのだ、と気を引き締めた。

クョスコニョ    [1] 
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