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  平成17年10月5日号社説
 

「アジアは一つ」の意味

 九月十八日、千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要の「ご親教」で西本願寺の大谷光真門主が岡倉天心に触れ、「西洋人は日本が平和な文芸にふけっていた間は野蛮国とみなしていたと批評した。仏教のみならずアジアに根付く穏やかな伝統の良さを見つけ出し、それぞれの文化を大切にする姿勢を養いたい」と語ったのは新鮮な驚きだった。
 「アジアは一つ」の言葉で知られる天心は、先の大戦で大東亜共栄圏を支える政治的なスローガンとして利用され、そうした誤解は今も根強い。宗門の戦争協力を反省する文脈の中で天心が語られたことに、深読みし過ぎかもしれないが、大東亜戦争に対する正当な評価をしようとする意思を感じた。

アジア主義の流れ
 天心は明治十三年に東大卒業後、文部省に勤務し、東京美術学校の設立にたずさわる一方で、フェノロサらと全国の古美術調査を行った。これが、その後の文化財指定につながる。明治初期の日本は何も欧化一辺倒ではなく、日本古来の美を守ろうとする動きもあった。法隆寺夢殿の秘宝救世観音も彼によって、何百年もの眠りを覚まされ、人々に知られるようになる。
 その後、明治二十一年に美術学校を開校させると、二十三年には二十代にして同校校長に就任する。明治政府の美術行政に携わるなかで、日清戦争前年の二十六年には中国へ美術調査の旅行に出掛けている。ここまでは順風満帆だったが三十一年、美術学校の内紛により校長を辞職すると同時に一切の公職から退く。
 天心が一年間に及ぶインド旅行に出るのは明治三十四年のことで、ノーベル賞詩人のタゴールやヒンドゥー教改革者のヴィヴェーカナンダらと接触して影響を受けている。同年に英文で執筆し、ロンドンで出版された『東洋の理想』の冒頭に「アジアは一つである」の言葉が出てくる。当時の天心は、現実のアジアが決して一つではないことは、中国旅行などの経験から十分承知していた。
 この意味を『詩の迷路――岡倉天心の方法』(学藝書林)の著作がある木下長広は、「日本の文化とその歴史は、西アジアから東アジアへかけての『アジア』全域の文化遺産をその奥深くに受けとめ、それを醸成するように成立している、その意味で、日本文化のありかたのうちにアジアは混然として大きな『一つ』を形成している」と説明している。
 近代日本では体外的には欧化主義が主流だったが、もう一つ「アジア主義」といえる流れがあった。日本がアジア諸民族と提携して、その独立、解放、発展に尽くそうとする心情や運動が、早くは明治初期の自由民権運動の中から生まれている。日本のアジア主義は黒船の来航に象徴される西欧の脅威に対して生まれた。既に幕末には中国がアヘン戦争に敗れ、インドも英国の支配下になっていた。そうした危機感から、いわゆる「抵抗のアジア」としてのアジア主義が生まれた。
 しかし、国内の民権運動も、朝鮮や中国に向かうと日本の国権拡張運動となる。それが日本のアジア主義の限界だとする批判は孫文だけでなく、アジア主義者の北一輝などからも挙がっている。

天心の理想を生かす
 天心のアジア主義は、そうした政治的文脈とも一線を画している。「近代西欧は人生における手段的な価値の実現に精力を注ぎ発展させたが、アジアは人生の目的を重視してきた。それが世界宗教がすべてアジアで生まれた原因だ」というように、普遍的な価値、精神文化において「アジアは一つ」と考えていた。それが、大谷門主の語る「アジアに根付く穏やかな伝統の良さ」であろう。
 中国やインドをはじめ現在のアジアは経済や政治のダイナミズムとして語られることが多いが、それよりも芸術や精神文化として語られるようになることが望まれる。それが、天心の理想を二十一世紀に生かすことになるからだ。

クョスコニョ    [1] 
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