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  平成17年7月20日号社説
 

中国とどう付き合うか

 七月二日、東京都内のホテルでダライ・ラマ十四世の古希を祝うパーティーが催された。中国の人民解放軍がチベットのラサに侵攻したのは一九五一年。五九年にはラサ蜂起が起こり、ダライ・ラマ十四世は八万人のチベット人と共にインドに亡命した。以後、インドに設立された亡命政府を基盤に、独立ないしは高度な自治を求める活動を世界的に展開している。
 その間、チベット人約六百万人が住むところに中国は七百万人もの漢民族を移住させ、チベットの中国化を進めている。文化大革命の時代には、チベット仏教の貴重な文化遺産が破壊された。中国の東側に位置する日本とは対極の、西側における出来事に、日本はもっと関心を持つべきだろう。

東アジアの華夷秩序
 古代からの東アジアの国際秩序は、中国を中心に周辺諸国を夷狄(いてき)とする「華夷秩序」と呼ばれる。中国と周辺諸国との関係は上下関係であった。夷狄は中華によって教化され、中華の一員となることが良しとされた。周辺諸国は中華に服属して、物産を中華に朝貢し、中華はその返礼として周辺諸国に国号や王号などを「冊封」として与える。これが「冊封体制」で、中華を上とし周辺を下とする秩序が形成された。
 中華から周辺アジアへと同心円的に広がる価値の上下関係が華夷秩序で、中華の教化を受けて中華文明に属し、自らもまた中華としての意識を持つ傾向がある。朝鮮やベトナムには「小中華意識」が形成された。
 日本も華夷秩序を受け入れ、「東夷」と呼ばれていたが、そこから脱却を図ったのが聖徳太子である。六〇七年の遣隋使に「日いづるところの天子、書を日没するところの天子に致す」という国書を持たせ、対等外交を開始した。
 これを見た隋の煬帝は激怒し、小野妹子は罰せられる寸前まで行ったが、その後、返書を持たされて帰国を許された。妹子に同行させた斐世清に持たせた文書には「皇帝、倭王に問う」とやはり倭の字を用いていた。翌年の遣隋使に持たせる返書には、「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」と書いた。皇帝の文字を避けることで隋の立場に配慮すると同時に、それと同格の「天皇」の称号を用いた。これで隋が収まったのは、国際関係が危うかったからだといわれる。
 八九四年には菅原道真の進言で遣唐使が廃止され、日本は古来からの中国との国交を絶った。安禄山の乱などによって、唐は滅亡に向かい、肝心の仏教も廃れていたからである。
 遣唐使の廃止によって日本風の国風文化が花開くことになる。平安初期にはかな文字が生まれ、十一世紀初めには紫式部の『源氏物語』が誕生する。以後、一時的に足利義満が明の冊封を受け入れるが、明治まで国交を絶った状態が続いた。
 近代になり、一八七一年に日清修好条規を結ぶことから、今に至る日中関係が始まる。欧米で形成された近代的な国際秩序は、各国の主権を対等に認め合うものである。しかし、東アジアには、対等な国際関係の歴史が浅い。人間関係においても上下関係で対しようとしがちだ。
 
対等な国際関係に
 日本の課題は、東アジアに対等な国際関係を築くことであろう。それが、いち早く先進国の仲間入りをし、民主主義の体制をつくった日本の使命だといえる。東アジアに対等な国際関係ができると、他のアジア諸国にも好ましい影響を及ぼす。とりわけ中国と国境を接している諸国は、それを待望している。ひいては中国の将来にとっても、それは望ましいことであろう。
 アジアの将来像を見据えた中国外交が、今の日本には求められているのである。

クョスコニョ    [1] 
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