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平成18年2月5日号社説 |
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「勤勉の哲学」の再生を
ライブドア事件は私たちに多くの課題を投げ掛けている。金融・経済の規制緩和、グローバル化が進むにつれ、多くの人がマネーゲームに参加し、株に投資するようになった。それは日本の株式市場を活性化させるものと期待されていた。ところが今回、大きな損害を受けたのは、ライブドア関連の株を買っていた個人投資家たちだ。事件は、そんな投資家心理を冷ますと懸念されているが、問題の根はもっと深いところにある。 鈴木正三と石田梅岩 近代社会を発展させた原動力は資本主義の発達だ。その背景には産業革命による技術の飛躍もあるが、「正直に働くことが善」というプロテスタンティズムの倫理が大きく影響したことは、マックス・ウェーバーが説くところ。人々がそう考えるようになったのは、宗教改革を起こしたカルヴァンの二重予定説による。死後、その人が救われるか裁かれるかは神の予定で既に決まっている、というもの。その説を受け入れた人々は、与えられた仕事を天職のように考え、勤勉に働くことで、自分が神に救われる側にある証を得ようとした。つまり、宗教的な動機が経済を発展させたのである。 同じような構図は日本にもあった。江戸時代の初め、武士出身の禅僧・鈴木正三(しょうさん)は、「世俗的行為は宗教的行為である」と唱え、「農業即仏行なり」「何の事業も皆仏行なり」と教えた。日本仏教は鎌倉時代から世俗化の傾向があったが、近世になって、それが人々の倫理として定着する。正三はそれに大きな役割を果たした。 士農工商という身分制度も儒教から来たように思われているが、実は仏教の本覚思想から来たもの。正三は「本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したまふ」とし、各人は「先世の業因でその位置に生まれて来たのだから、武士は秩序維持、農民は食糧、職人は必要な品々の提供を、商人は流通を担当するのが宗教的義務だ」と説いた。 興味深いことに、正三がそう考えるようになった要因はキリスト教にある。神による人間の創造、堕落による原罪の発生、イエス・キリストによる救いというキリスト教神学の構造から、仏教を読み直したのである。しかも、幕府に命じられ、キリスト教を論破するために研究したのがきっかけだったという。 それから百年後、京都の農家に生まれ、商家に奉公した石田梅岩は、その経験から、庶民の言葉で倫理を語った。もっとも、正三との間には、思想的な継承以外につながりはない。読書好きだった梅岩は四十過ぎで隠居し、塾を始める。塾生の多くは商人で、商売上の質問をし、梅岩が自分の考えを語る。これが石門心学の始まりで、ベースは儒教。やがて評判を呼び、幕府が奨励して武士まで学ぶようになった。梅岩が説いたのは質素、倹約し、家のために働く勤勉の哲学である。 養老孟司さんが『超バカの壁』(新潮新書)で書いているように、日本人の「私」は、昔から「家」を意味していた。西欧のように、分断され孤立した「個人」ではない。しかもその家は、血縁的な家族だけでなく、商家のような疑似家族にも広がっていた。日本人にとって働くとは、はた(周り)を楽にさせることであった。戦後六十年で最も失われたのは、そうした日本人の勤勉の哲学ではないか。 信仰心の回復こそ では、それをどう再生していけばいいのか。個人化が進んだとはいえ、家族や地域、職場の人たちとのつながりで意識する日本人の心性は根強いものがある。若者が携帯メールを頻繁に交換するのも、その表れだろう。そうした日本人の心性を手掛かりに、関係性を回復し、共同体を復活させる中で、勤勉の哲学も再生できるのではないか。 さらに言えば、倫理の崩壊の背景には、信仰心の衰退がある。とりわけ、戦後教育を受けた世代が六十に手が届くまでになり、社会の無宗教化を進めている。しかし、やがて彼らも死を意識するようになる。とりわけ団塊の世代が死に真剣に立ち向かう時が、宗教の大きなチャンスだと思うのだが。
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