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平成18年10月5日号社説 |
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現代人が求める宗教を
以前、五木寛之さんの講演で「現代人は泣かなくなったが、それは心が枯れてきたから。昔の武士はもっと泣いていた」という話を聞いたことがある。中年になって涙もろくなったのを擁護してくれているようで、意を強くしたのを覚えている。このたびの本紙講演会でも、五木さんは悲しむことの大切さを強調していた。落ち込んでいる人に「元気を出せ」と言うのはむしろ有害で、悲しみに寄り添うようにするのがカウンセリングの基本である。話を聞いているうちに、これは「他力」の、さらに言えば「大乗」の教えではないかと思った。 中国から朝鮮、日本に伝わった仏教は大乗仏教であった。ブッダが入滅してから約二百年後、ブッダの遺骨を納めた各地のストゥーパ(仏塔)を崇拝する在家の信者たちの信仰運動が中心になって、大乗仏教が生まれたとされる。伝統的な部派仏教の教えから少し自由になり、在家信者に向けて教えが展開されたからだろう。 志を支える情操 仏教学者の末木文美士東京大学教授は『思想としての仏教入門』で、大乗仏教の重要な特徴として「死せるブッダから生けるブッダへの転換」と「ブッダは特別の存在でなく、人間もブッダになれるとしたこと」の二点を挙げている。そこから、ブッダの前の段階である菩薩が注目され、観音菩薩をはじめ多くの菩薩が活躍するようになった。 十月三日から開かれている国立東京博物館の「仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り」でも観音菩薩像が多い。とりわけ、滋賀・向源寺蔵の国宝・十一面観音菩薩立像は、その慈悲深い表情やふくよかな胸、しなやかな立ち姿の美しさから、白洲正子はじめ多くの人々を魅了してきた。現実志向で自然との一体感を尊ぶ日本人の民族性が、神木に像を刻む、というより像を彫り出す技を発達させてきたのだと思う。 安倍晋三首相は所信表明演説で教育再生を掲げ、「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくる」として、郷里の偉人・吉田松陰がわずか三年ほどの松下村塾の教育で、幕末・維新に活躍した人材を多数輩出したことを述べた。 確かに松陰は「『国家とともに』という志がないならば人ではない」と、志の重要さを説いている。しかし、その師・佐久間象山は「天下の政治を行う者は吉田だが、わが子を託して教育してもらう者は小林(虎三郎)のみ」という言葉を残している。小泉純一郎前首相が、最初の所信表明演説で取り上げた、「米百俵」の小林虎三郎だ。もっとも、小泉氏はそれほど教育改革に熱心でなかったので、前政権のやり残した課題を遂行するという意味では、吉田と小林の両方に学ぶことになろうか。 忘れてならないのは、強い志には、それを支える深い情操が不可欠なことだ。幕末から明治にかけて、日本を訪れた多くの外国人が、人のことを思いやる日本人の情の細やかさ、子供を愛する心の深さに感心している。そうした情愛が養われていたからこそ、国を思う志も育ったのである。 それゆえ教育改革では、学力の向上も必要だが、それ以上に命の大切さを教える情操教育に力を入れてほしい。さらに、宗教教育をタブー視する戦後教育の偏向を正してもらいたい。もちろん、宗教界の努力も必要である。 近代宗教を超えて 先の講演で、五木さんは「人は憂いを抱いて生まれてきたことを覚悟して生きるしかない。ところが戦後の文化は憂いを目の仇にして、明るい文化を作ってきた」と語った。しかし、現実の国や世界は発展を続けなければ破綻してしまう。その被害はけた違いに大きいから、走ることをやめられない。これは、現代人の業なのではないか。 衆生に寄り添うことで発達してきた仏教はじめ日本の諸宗教からすれば、現代は近代宗教を乗り越える重要な時期を迎えているともいえよう。そのためのヒントは、大衆作家である五木さんのような人たちから発せられているのではないか。大衆の心を離れた宗教が存続することはあり得ないからだ。
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