悠仁親王殿下ご誕生 日本の危機救う皇室の祈り
九月六日、秋篠宮妃殿下が男子をご出産された。秋篠宮殿下以来四十一年ぶりの男子皇族のご誕生というご慶事に、日本国民は久々に晴れやかな気持ちになり、新宮さまのお健やかなご成長を心からお祈りした。皇太子殿下の次の世代の初めての皇位継承者となられた新宮さまは、十二日の「命名の儀」で「悠仁」(ひさひと)さまと命名された。愛育病院から退院される折、妃殿下の胸に抱かれ、安らかに眠っておられる悠仁さまのお顔を拝見し、日本の大きな危機が去ったと、国民の多くが胸をなで下ろしたことだろう。
民のため祈る天皇 その危機とは、昨年十一月に、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が、女性・女系天皇を容認する報告書をまとめたことに端を発するものだ。当初、在任中の皇室典範改正を目指していた小泉首相は、妃殿下ご懐妊の知らせを受けて姿勢を修正し、長い時間を掛けて議論するよう先送りした。 もし、世論の支持をバックに、女性・女系天皇容認に皇室典範を改正していたら、その後の日本はどうなっただろう。千数百年にわたって男系を維持してきた皇統を変えたことで、天皇制度そのものが正当性を失ったとする声が高まったのではないか。女系天皇になっても天皇制度は揺るがないという論者もいるが、千年の問題を十年の尺度で測っているとの感はぬぐえない。いずれにせよ、もっと時間を掛けて議論すべき問題である。 今回の皇室典範の改正をめぐる議論で分かったことは、政治家はじめ国民一般の、歴史的な天皇の在り方に関する基本的な知識の無さだ。女性天皇と女系天皇の違いが分からない人が、いまだに多いのではないか。その原因は、戦後教育において、天皇のことをきちんと教えてこなかったからであり、さらにその先には、現皇室典範を定め、旧宮家を解散させ、皇室の弱体化を図ったGHQ(連合国軍総司令部)の思惑がある。つまり、占領政策の影響が、戦後六十年を経て現れたのだ。 歴史的に、天皇は神々への祭りをつかさどる祭祀王だった。天皇は宗教的、文化的性質を強め、政治は有力貴族や武士に任せるようになる。この権威と権力の分離が、日本に安定をもたらした。天皇が政治の前面に出たのは、例外的な期間である。 歴代の天皇は、何よりも祈る人だった。明治天皇は「とこしへに民安かれといのるなる わが世を守れ伊勢のおほかみ」と、最後の御前会議に臨まれた昭和天皇は「外国と離れ小島にのこる民の うへやすかれとただいのるなり」と御製を残されている。この国と国民のために神に祈るお方で、そのお姿は「民の父母」という呼び方がふさわしい。 天皇と国民を親子に例えるのは、戦前の「天皇の赤子」という言葉を連想させ、反発を招くかもしれない。それも、戦争という非常時に、天皇の権威を利用して国民を動員したことの反動である。だが、私にとって天皇はどんな存在かを問わない限り、天皇を知ることはできない。制度や機構としての天皇ではなく、私にとっての天皇の意味が問題なのである。 私にとっての天皇を 日本の敗色が強まっていた昭和二十年春、戦死した若者たちの魂の行く末を思いながら、民俗学者の柳田国男が書き続けていたのが、戦後間もなく発行された『先祖の話』。そこで柳田は、日本の再生は家や地域などの伝統的な共同体が基本になると述べている。カントの理想主義に基づいて民族共同体の再生を目指した政治学者の南原繁は、それには歴史的、文化的に天皇制度が不可欠だと考えていた。 冒頭、日本の危機は去ったかのような書き方をしたが、日本人の内面を見ると、それは正しくない。私にとっての天皇の意味が深まっているようには思えないからだ。これは日本人としてのアイデンティティーの問題でもある。さらには、自然宗教を基に、仏教や儒教、道教などを取り入れ、独自の生活宗教を生み出してきた民俗文化の「今」を問うことでもある。
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