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平成18年9月5日号[天地] |
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八月初旬、住吉大社に行くため大阪・天王寺からチンチン電車の阪堺線に乗ろうとしたら、「与謝野晶子文学碑めぐり」のパンフレットが目に入った。参拝の後、堺まで足を延ばす。晶子は明治十一年(一八七八)、甲斐町にある和菓子の駿河屋に、三女として生まれた。少女時代から文学的才能に恵まれ、二十歳ごろには店番をしながら和歌を投稿していた▼妙国寺駅で降り、最初に訪れたのが本願寺堺別院。境内には親鸞と蓮如の立像が向かい合い立っている。歌碑には晶子の自筆で「劫初より作りいとなむ殿堂に われも黄金の釘ひとつ打つ」と刻まれていた。劫初(ごうしょ)とは仏教用語でこの世の初め。歌人の夫・鉄幹の父が西本願寺の院内僧だった関係で戦後、歌碑が建てられたという。堺を歩いて気がつくのは寺が多いことだ▼すぐ近くの覚応寺には、『みだれ髪』に収められた代表作「その子はたちくしにながるゝくろかみの おごりの春のうつくしきかな」の歌碑があった。少し歩くと、大阪府立泉陽高校の校庭には、晶子が日露戦争に出征した弟に贈った「君死にたまふことなかれ」の歌碑がある。この歌は反戦歌のように思われているが、純粋に弟の身を案じたもので、日露戦争に反対したわけではない。十一人の子を育て、反共・反ソの政治評論を書き、後には戦争鼓舞の歌を詠むなど晶子はむしろ「軍国の母」だった▼かなり離れた府立金岡高校には「金色のちいさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり夕日の岡に」の歌碑がある。天地子が通った小学校には校庭にイチョウの巨木があり、教科書でその歌を見て、夕陽の中、イチョウの葉が舞い散る光景が浮かんだのを思い出した。
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