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平成19年6月5日号社説 |
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互いに欺かず争はず
徳川吉宗の将軍職就任を慶賀する第九次朝鮮通信使が来日したのは一七一九年。一行は四月十一日に漢城(今のソウル)を発ち、釜山を六月二十日に出港して、二十七日に対馬の国府・府中に着いた。翌二十八日、通信使一行の製述官・申維翰(シン・ユハン、39歳)は対馬藩の真文役(通訳)雨森芳洲(52歳)に出会う。製述官は公文書を作成する係りで、文才豊かな者が就いていた。以来、十二月二十九日に一行が釜山に向け出港するまでの八カ月間、二人は両国を代表して交渉の前面に立ち、ぶつかり合いながら友情を深めた。その記録を申維翰は『海遊録』(姜在彦訳、東洋文庫)に残している。 方広寺での激突 芳洲は近江(滋賀県)伊香郡高月の生まれで、江戸に出て朱子学者・木下順庵の門下生となる。同門には、新井白石、室鳩巣(きゅうそう)などがいる。二十二歳で対馬藩に仕官し、外交・貿易の実務に当たった。その間、長崎で中国語を、釜山の倭館で朝鮮語を学んだ。倭館とは対馬藩の出張所のようなもので、米を自給できず産物の乏しい対馬藩は、古くから朝鮮との交易に藩財政を大きく依存していた。 二人が最も厳しく対立したのは帰路の京都。所司代が大仏寺(方広寺)で使節を接待しようとしたからである。方広寺は最初、豊臣家の祈願寺として創建され、地震で二度崩壊した後、徳川氏の手で大仏寺として再建されていた。その経緯を知らなかった第八次通信使は、大仏寺で接待を受けている。ところが、第九次の使節は同寺の過去を知っていた。朝鮮の国土を二度にわたって蹂躙した秀吉の祈願寺で、接待を受けることなどできるはずがない。万一、そのことが国王に知られると、使節らこそが厳罰に処せられる恐れもある。こうしたことから、幕府、京都所司代、対馬藩、通信使、朝鮮国の面子が衝突する中で、交渉役が激論を戦わせることになる。 結果的に、通信使は大仏寺は徳川氏が創建したものとの説明を受け入れ、対馬藩と京都所司代の顔を立てることにした。しかし、正使、副使は出席したが、三使の一人、従事官は病気を理由に欠席という抵抗を示した。 方広寺の近くに、土を盛り上げた耳塚がある。秀吉が討ち取った朝鮮軍将兵の首の代わりに耳や鼻を削ぎ、塩漬けにして送らせたもので、それを穴に埋め、土を盛った。思うように耳や鼻が集まらず、一般人を殺害して送った例も多いという。秀吉はそんな悲惨な現場を知らない。来日した朝鮮人使節が耳塚に詣でたとの記録もあるが、第何次のことかは不明だ。第九次の一行が詣でなかったのは当然のことである。 すっかり気心が知れるようになった芳洲のことを、申維翰は「東(通称は東五郎)」と朝鮮風に呼ぶようになっていた。別れに臨み、「今夕有情来送我 此生無計更逢君」との詩を贈った。あなたは今夕、情をもって私を見送りに来たが、生きて再会することはできないでしょう、と。 これに答えて芳洲は、涙にむせびながら「私は老いてしまった。再び国事にかかわることはなく、ただ死を待つばかり。願うのは、諸侯が国に帰り、栄達されることだ」と語った。そこには、江戸に出て栄達する望みがかなわず、絶海の孤島で生涯を終えることになる悔しさも込められていた。 東アジア交流ハウス もっとも芳洲はその後、八十八歳の高齢まで生き、わが国初の朝鮮語入門書『交隣須知』をはじめ藩政に関する上申書『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を残した。『交隣提醒』では、外交の基本は「互いに欺かず争はず」にありとし、「誠信の交わり」を説いた。さらに日本の古典も熟読し、一万首を超える歌を作るなど、まさに学びの生涯を生きた人であった。 観音の里としても知られる滋賀県高月町には、芳洲の生家跡に「東アジア交流ハウス 雨森芳洲庵」が建てられ、韓国からの修学旅行生やホームステイを受け入れるなど、芳洲の思想を今の民間国際交流に生かしている。
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