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平成19年6月20日号社説 |
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変わるから変わらない
建永二年(一二〇七)三月、法難のために京都を追われた七十五歳の法然は、瀬戸内海から讃岐(香川県)に渡る。高齢の身には厳しいこの逆境を、法然はむしろ「地方に念仏を広めるまたとない機会」ととらえ、旅路の先々で専修(せんじゅ)念仏の教えを説いたという。 日本仏教の転換期 法然の専修念仏の教えは無学で修行もできない庶民に向けて説かれたもので、行うのにやさしく、女人成仏も説かれたことから人々の間に急速に広まった。これに危機感を覚えたのが、天台宗の比叡山延暦寺や真言宗、南都仏教などの既成仏教である。 鎮護国家の法として取り入れられ、朝廷や貴族を対象に説かれていた仏教が、一方では行基をはじめ空也など聖たちの活躍によって、大衆の心も捉えるようになる。日本の仏教は大きな転換期を迎えていた。 背景には、平安末期からの末法思想の浸透や、争乱が続く世を嘆き浄土にあこがれるという人々の心理がある。念仏宗は庶民だけでなく貴族や武士の間にも広まっていた。 延暦寺や興福寺の訴えで後鳥羽上皇は念仏停止の命を出し、法然は土佐に、親鸞は越後に流罪とした。その法然が讃岐の本島に行ったのは、法然に篤く帰依していた関白九条兼実が、自身の領地に送られるよう工作したから。塩飽(しわく)諸島の一つ本島は、今は丸亀市に属している。 船で讃岐に向かう途中、一人の遊女がこぎ寄せ、「私のようないやしい生業の女でも救われますか」と法然に尋ねた。すると法然は、「できるならその仕事をやめなさい。生活のためそれができないなら、そのままで念仏を唱えるように。阿弥陀仏は必ずや救ってくださる」と答えたという。悪人正機の教えが明らかだ。 この逸話は、イエスが姦通の罪で石打ちの刑にされかけた女性を救った話に似ている。女性に石を投げようとしていた人たちに、イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と告げると、一人去り、二人去り、やがて誰もいなくなった。残された女性に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語る。 ユダヤ教を革新したイエスも、既成の宗教勢力に迫害され、最後には十字架に架けられてしまう。宗教のたどって来た道は東も西も似ているようだ。 平安時代の念仏信仰には、こもの小舟で海に出て、念仏しながら水没したり、焼身自殺するなど自力的だった。法然はそれを厳しく否定し、他力を往生思想の根幹とした。すべては阿弥陀仏のはからいだからだ。 法然が本島にいたのは数カ月で、その後、讃岐の小松荘(今のまんのう町)に移る。法然は同年十二月に赦免となって摂津(大阪府箕面市)の勝尾寺(かつおうじ)に移り、四年後の建暦元年(一二一一)に帰京する。翌年一月二十五日に亡くなった。 それから三百七十年後の天正六年(一五七八)、徳誉道泉という僧が上人の遺跡を本島に訪ね、法然が滞在した館の跡に寺を建て、専称寺と名付けた。 高松市仏生山にある法然寺は、法然が住んだ小松庄生福寺の遺跡を移し、寛文八年(一六六八)に復興したもの。高松藩の初代藩主となった松平頼重がこれを高松松平家の菩提寺とした。徳川家康の孫であり水戸の徳川光圀の実兄に当たる頼重は、法然を追慕する思いが強かったという。 自ら革新できるか 宗教は常にそれまでの考え方や生き方を革新するものとして現れ、人々の心をとらえてきた。しかし、それが教団になり、時を経ると、いつの間にか保守的になり、人々の心から離れてしまう。 永遠・普遍の真理を掲げる宗教であればこそ、大衆の心に寄り添い、革新することを怠ってはならない。自ら変われるものこそ、変わらないのである。
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