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平成19年7月20日号社説 |
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国母を持つ民の幸せ
大正天皇については近年、再評価が進んでいるが、貞明(ていめい)皇后についてはほとんど知らない人が多いのではないか。香淳皇后の著書がある工藤美代子さんの近著『母宮貞明皇后とその時代』は、その人柄と事績を伝える貴重なもの。タイトルのように三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下と同妃殿下が母宮の思い出を詳しく語っている。 ハンセン病者への思い 「つれづれの友となりてもなぐさめよ行くことかたきわれに代りて」は大宮御所に生える楓(かえで)の実生の苗を、全国のハンセン病療養所に贈られたときの歌。楓は昭憲皇太后のお印でもある。ハンセン病の歌人、明石海人(かいじん)は「みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生(あ)れてわが悔むなし」と感謝の歌を残している。 仏教への信仰が厚く、全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した聖武天皇とその后の光明皇后は、ハンセン病患者の治療に生涯をささげた。悲田院や施薬院を設け孤児や患者の救済に当たっている。 貞明皇后は灯台守にも特別の関心を払っていた。皇后は大正十二年、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る三浦半島の走水(はしりみず)神社を参拝後、その突端にある観音崎灯台に足を延ばした。そこでは、尊が東征の折、荒れた海を鎮めるため身を投じた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)に思いを馳せたであろう。 この日の灯台見学がきっかけになって、貞明皇后は全国の灯台守の家族のために力を尽くすようになる。例えば、僻地の灯台守の家族にラジオ二百台を贈った。 また昭憲皇太后が始めた皇室での養蚕にも積極的に取り組んでいる。皇后となった大正二年の秋にまず取り組んだのが、宮城内に二階建ての養蚕所の設営だった。旧本丸跡には三千坪の桑畑を作る。「わが国のとみのもとなるこがひわざいよいよはげめひなもみやこも」など養蚕の歌が多い。「こがひ」とは「蚕飼い」のこと。明治の日本の代表的な輸出品が生糸だった。 『日本書紀』には雄略天皇と同皇后が養蚕に深い関心を持っていたとの記述がある。以来、宮中での養蚕が試みられ、何度が中断を繰り返しながら、昭憲皇太后から貞明皇后、香淳皇后と引き継がれ、美智子皇后の熱心な取り組みもよく知られている。とりわけ心を込めて育てている日本古来の希少種「小石丸」は、貞明皇后が愛でた蚕だ。 工藤さんが貞明皇后に関心を持ったのは、明治、大正、昭和の天皇たちを支えた皇后の立場や人となりから歴史の深奥に触れたいと思ったからだという。貞明皇后は、日露戦争直前に東宮妃になって以来、日中戦争、太平洋戦争と日本が最も悲惨な道をたどる過程を体験してきた。しかも、秩父宮、高松宮、三笠宮と三人の親王を軍人として戦地に送り出し、東京大空襲にも遭っている。 四十二歳で皇太后となると、天皇を御一人として敬しながら満州国皇帝の溥儀を含む親王たちをいつくしみ、天皇の支えとなるよう気を配った。空襲で大宮御所が焼け落ちると、「これで国民と一緒になった」と、むしろほっとしたように語ったという。 近代日本の天皇として国民との距離を近くした点で、全国を行幸し、人々と親しく会話を交わした大正天皇の功績が見直されているが、その背後には広い心を持った貞明皇后の支えがあったことと思われる。 ノブレス・オブリージュ 貞明皇后の足跡をたどるたびに、工藤さんは「世界史の中で見ても稀有な高みにある女性」として誇りに思うようになったという。養蚕やハンセン病患者の救済、灯台守の支援活動などを「ノブレス・オブリージュ(高貴な者の使命)」のさきがけと高く評価している。 思えば、日本の皇室は古代からの伝統を守りながら、その一方で、生活の様式化など常に時代の先端を先取りしてきた。それらは真の目で見れば決して矛盾するものではなく、調和を図ることが国民の幸せにつながるとの確信があったからだろう。そのような国母を持つ民であることを何より幸福に思う。
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