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平成19年10月5日号[天地] |
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大津市での神社本庁教誨師研究会を取材した折、錦織にある大津宮遺跡を訪ねた。既に住宅が密集しているので、公園などに遺跡は点在している。七世紀後半、天智天皇はなぜこの地に都を営んだのだろうか▼六六〇年、百済が新羅と唐に攻められて亡ぶが、同盟国の倭国(日本)は百済復興を支援しようと出兵した。それを指揮したのが中大兄皇子である。しかし六六三年、白村江の戦いで倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった▼国外に脅威を抱えた倭は、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の山城を築き、大宰府には水城を築いて防備を固めた。そして六六七年、中大兄皇子は都を近江大津へ移し、翌六六八年、即位して天智天皇となる▼大津遷都の理由は、@抵抗勢力の多い飛鳥から遠いA陸上・湖上交通に便利B外国軍が畿内から攻め上ってきても逃げやすい――との諸説がある。さらに、湖西から大津北端に至る地域には先進技術を持った百済系渡来人が多く居住しており、その経済力を頼ったという説もある▼一般に三井寺と呼ばれる天台宗の園城寺を創建した大友氏も、『新撰姓氏録』には「百済国の人」と記されている。園城寺北院の一角に足利尊氏が寄進した国宝・新羅善神堂があった。唐から帰国の船旅で暴風に遭った円珍に新羅明神を名乗る老人が現れ、「私を祀るなら仏法を守護しよう」と言って嵐を静めたという。東アジア古代史を背景に、謎はロマンに通じる。
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