|
|
購読お申し込み・お問い合わせはこちらフォーム入力できます! |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
平成20年9月5日号 |
|
|
|
自分の物語を生きよう
今年は『源氏物語』千年紀の年、つまり、源氏物語の存在が確認されて千年になる。京都市北区の上賀茂神社には紫式部がたびたび参拝した摂社、片岡社がある。『新古今和歌集』の式部の歌「ほととぎす声まつほどは片岡の もりのしづくに立ちやぬれまし」は片岡社を詠んだもの。 片岡社は上賀茂神社の母神・正依比売命(たまよりひめのみこと)が祀られており、縁結び、子授けの神様として若い女性にも親しまれている。最近、真新しい十五個の小鈴をつけた御鈴が取り付けられた。良縁を願う人たちが祈りながら御鈴を振り、涼やかな音を響かせる姿が見られる。 人生そのもの 人間が言語的物語を語り始めたのは約一万年前とされる。その中から、世界最初の小説が日本で生まれたのは、日本が多神教の風土で、かつ式部が平仮名を使う女性だったからだろう。昨年亡くなった心理学者の河合隼雄さんは小川洋子さんとの対談で「一神教では神の力があまりに強いから、人間は神の創りたもうた物語を生きるんですよ。……人間のくせに物語をいじったりしたらいかんわけです。キリスト教なら聖書があるから、それ以外の物語を作ってはいけない」(『生きるとは、自分の物語をつくること』)と語っている。 平安時代、式部が属していた上層社会において、身分の高い男性には出世していくという物語が、女性には宮中に入って天皇の想われ人になり、天皇の男子を産むという成功物語があった。式部は、教養や財産はありながら、それを望むような地位にはなかったのが、物語を書くには幸いした。 さらに、当時の公用語だった漢文は、事実を書くには適していたが、気持ちを書くのにはふさわしくなかった。人々が日常的に自分の思いを語っていたのは大和ことば。漢字の音を借用して作られた万葉仮名から生まれた平仮名によって、式部は人々の気持ちを表現した。それによって、人々は自分なりの物語が作られることを知ったのである。 ところで、物語とは何だろう。欧州で大戦が始まっていた一九四〇年に『源氏物語』の英訳本に出会い、戦争のない美しい文学に「救われた」と言うドナルド・キーンさんは、式部が『源氏物語』を書いたわけを、「蛍」の帖を引きながら、次のように推測している。「五月雨の退屈しのぎに本を読む玉鬘に、光源氏が笑って『作りものにすぎない物語に、女性は夢中になるらしいね』と言います。が、すぐに想い直して『日本書紀などは片そばぞかし』、日本書紀は事実だが人間の一面しか描かない。しかし物語には人間のすべてが出てくる、というのです」(読売新聞八月二十日付) この世に生まれ、親などとの関わりでことばを覚え、やがてその言葉を使って自分を表現し、周りの世界を理解していく。そうやって育ち、生きていく人生は、物語として記憶され、語られる。前掲書で小川さんは「小説で一人の人間を表現しようとするとき、作家は、その人がそれまで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、お話の形で取り出して、再確認するために書いているという気がします」と語っている。 自分なりの物語が作れないと、人は悩み、時として精神を病む。臨床心理の仕事は、そんな人が物語を作れる手助けをしている。河合さんは、「来られた人が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような『場』を提供している、という気持ちがものすごく強い」と語る。 教育・環境づくりを 物語は事実そのものではない。事実を自分なりに再構成したフィクションである。しかし、事実もそれを言葉で物語にしない限り、私のものとはならない。通り魔事件を起こすような若者たちは、自分の物語を作れないことにいら立っているのではないだろうか。 どんなに悲しい、つらい、不運なことが起ころうと、それを自分の物語として記憶できれば、人はそれを乗り越えていくことができる。そして、それによって、むしろ大きく成長するだろう。格差社会を告発するより、それができるような教育や環境づくりが必要なのではないか。『源氏物語』千年紀の年だからこそ、強くそう思う。
|
|
|
|
|
|
|
|
特集 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
社是 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|