纏向遺跡のロマン
吉永小百合が主演した映画「まぼろしの邪馬台国」は、邪馬台国が佐賀にあったとする在野の研究者、宮崎康平の説に基づくもので九州説の一つ。それに対して最近、畿内説を元気づけているのが、奈良・纏向(まきむく)遺跡の発掘だ。年輪年代学の発達で同遺跡の最盛期が邪馬台国の時代と合致することが明らかになり、しかも大規模な都市構造と祭祀施設跡が発見されたことで、桜井市・三輪山のふもとに邪馬台国があったとする説が注目されつつある。 邪馬台国はどこ? 邪馬台国は中国の「魏志倭人伝」などに登場する、わが国最古の国で、弥生時代の二世紀から三世紀にかけてあったと推定されている。「魏志倭人伝」には女王卑弥呼が治めていたと記され、その記述の旅程から、古代より大陸に近い九州説が唱えられ、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群などを候補地とする諸説が乱立している。 それに対して畿内説には、弥生時代から古墳時代にかけて出土している約四千枚の鏡のうち紀年鏡十三枚の十二枚が二三五から二四四年の間に収まって銘され、かつ畿内を中心に分布していること、さらに、この時期の畿内勢力が中国の年号と符合することなどから唱えられ、琵琶湖湖畔から大和、難波まで広い範囲が候補地に推定されている。 大神神社の御神体である三輪山近くの纏向遺跡が有力視されてきたのは、@吉備、阿讃の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、それ以後、全国に広がっていることA北九州から南関東に至る全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する役割を果たしたこと――などの理由からだ。しかし、倭国の産物とされる鉄や絹が主に北九州から出土し、「魏志倭人伝」では、邪馬台国は伊都国や奴国など北九州の国より南にあったように読めるなど、有力な根拠の九州説を覆すまでには至っていない。 纏向遺跡は、三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期の遺跡群のことで、水運で難波に通じる大和川に接し、前方後円墳発祥の地とされ、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、纒向石塚古墳、東田大塚古墳、箸墓古墳、ホケノ山古墳から成る。箸墓古墳は、宮内庁により第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市(やまとととひももそひめのみことおおいち)の墓とされるが、時代とその規模から卑弥呼、あるいはその後継者トヨの墓とする説もある。 一九七〇年代から始まった纒向遺跡の発掘調査では、集落跡は発見されておらず、祭祀用の建物と土抗や弧文円板、鶏形木製品などの祭祀用具、物流用のヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などが発見されている。そうしたことから、三輪山を中心とする古代祭祀の聖地と考える研究者が多い。 三月二十二日、JR巻向駅近くの発掘現場で行われた現地説明会には、二千人を超える古代史ファンが集まった。これまでの発掘で、高台の西端に位置する三棟が発見されており、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性が高い。 発掘を行っている桜井市教育委員会は「建物群が特別な施設であることは間違いない」と発表している。
大神神社へ 社説子が訪れたのは二十四日。発掘現場には誰もおらず、隣の畑で菜の花が黄色い花を揺らせ迎えてくれた。そこから六つの古墳を歩くと、わずか三十分で回れるほどの範囲にそれらが集中している。箸墓古墳の堀はため池に活用され、ホケノ山古墳の上では犬を連れた中年男性がつくしを摘んでいた。 二キロほど南の大神神社にもお参りすると、平日も参拝者が絶えない。崇敬会の人たちがバスで集まり、自家用車のお祓いを受ける人は列をつくって待つ。古代から連綿と続く日本人の信仰が、形を変えながら今も息づいていた。
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