|
|
購読お申し込み・お問い合わせはこちらフォーム入力できます! |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
平成22年4月5日号社説 |
|
|
|
葬式は、要る
『葬式は、要らない』を書いた島田裕巳さんは、東大の学生時代、研究のためにヤマギシ会に体験入会したほど真摯な宗教学者であるから、単純に葬式不要論を述べているのではない。声高に叫ばなくても葬式が減少、簡略化している現状を踏まえ、自分らしい死に方を勧め、必要な情報を提供している。死後に戒名を付ける仏教国は日本だけで、欧米には墓参りの習慣がないなど、供養の仕方は国や民族、宗教により異なる。底流にあるのは家族から個人、田舎から都市への生活形態の変化だ。ただ、それを助長するか、踏み留めるべきかは大きな問題をはらんでいる。 死者と共に生きる 本紙で何度か紹介した内科医でかがわ尊厳死を考える会会長の朝日俊彦さんが昨年末、胃がんで亡くなった。早くからがん患者の痛みを軽減する治療に取り組み、末期患者の在宅看護を推進し、『笑って大往生』などの著書も多く、死の直前まで自分らしい死の迎え方を講演していた。 「がんは死期が分かって準備できるので一番いい死に方」が持論だったが、自身の胃がんに気付いた時には、既に末期だった。県立病院を退職後、クリニックを開き、主に末期患者を受け入れていたので、余命三カ月と言われたのを一年三カ月まで伸ばし、その間に引き継ぎも行った。葬式には自身で吹き込んだお別れの挨拶が流され、参列者の心に印象深く刻まれていた。 日々の生活で宗教に触れる機会は少ない現代人が、ふと死について考えるのが葬式だろう。死を考えるのは生を考えることであり、自分なりに評価できる生き方をしたいと思う。それが宗教に目覚めるきっかけになることもある。 病院での死が90%にもなり、子供たちも身近に人の死を見ることが少なくなった。小児科医で死を通して生を考える研究会代表の中村博志元日本女子大学教授は、「身内の葬式には学校を休ませてでも参加させるべきだ」と言う。「死んでも生き返る」と思っている子が小学生の三分の一にもなっている状況が、命を軽んじる風潮の背景にあるとの考えからだ。 さらに葬式は、会う機会の少なくなった親族を集める機能もある。経済成長に伴う都市化や核家族化は、大切な家族の絆を奪っていった。いまや農村でも共同体は崩壊しかけており、無縁社会が広がっている。それで人々が幸福になれるのならいいのだが、孤独死や犯罪の増加など、むしろ社会崩壊を進め、多くの不幸を生み出している。 人間とはかかわりの存在であり、助け合い、支え合って生きるしかないのだから、それを壊すような傾向を防ぎ、現実的な絆を創造していかなければならない。そこにこそ宗教の現代的な意義があると、島田さんは言いたかったのではないだろうか。 もう一つ大切なのは、この社会は生きている人たちだけのものではないということだ。仏教渡来以前の古代から、日本人は先祖に見守られて暮らしていると感じてきた。動物だけでなく草木や鉱物にも命があると思っていた。それが仏教に吸収され、「山川草木悉有仏性」の天台本覚思想となった。お盆に先祖を迎えるのも、神道の思想からである。そうした感性が、この社会の平和を保ってきた。 供養の意義 葬式に始まる一連の儀式は、広い意味で言えば供養になろう。日本人の感性は、人形供養や針供養など、身の回りの品々にも思いを掛け、記憶に残す営みを生んできた。 故人の追善供養は、いわば記憶の再生産であり、それには人間の精神を健康に保つ意義もある。人間の脳は、懐かしい人たちやペット、品々などの思い出に満たされることで、安心できるのだろう。 日本におけるターミナルケアの拡充をライフワークにしている京都大学教授のカール・ベッカーさんは、死者の記憶を共有していくことが遺族の心を安定させるという。 形式としての葬式は、経済状況や暮らしの形態により変わるものだが、大切な人たちへの供養は続けていくべきだ。自分らしい生き方のためにも。
|
|
|
|
|
|
|
|
特集 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
社是 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|