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平成22年9月20日号社説 |
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晩年を幸福にするには ことわざには「終わりよければすべてよし」とあるが、最近の出来事を見ると、人生の終わりを幸せに過ごすことが次第に難しくなってきているようだ。一つには、家族や地域という身近な共同体が弱体化していることがあり、もう一つには、それを補うべき社会的な仕組みが整備されていないことがある。前者には、人が個人の幸せを最優先するようになったことが、後者には、それを可能にするほどの経済力のないことが最大の要因だろう。 しかし、前掲のことわざは人生を直線的にとらえる、近代的な死生観によるもので、古くからの円環的な死生観からすると、どんな死に方をしようと大した問題ではないとなる。 トルストイの最後 没後百年を記念してトルストイの晩年を描いた映画『終着駅 トルストイ最後の旅』が公開されている。「世界三大悪妻」とされるのが、ソクラテスの妻クサンチッペとモーツァルトの妻コンスタンツェ、そして、トルストイの妻ソフィアだ。本作はソフィアの視点からトルストイの死を描いたもの。「終着駅」は、家出をした彼が、寒村のアスターポヴォ駅の駅長官舎で息を引き取ったことから付けられた。妻役の名優ヘレン・ミレンは、今年のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされている。 伯爵家に生まれ、若くして大作家になったトルストイは、次第に理想主義に傾倒し、貧しい農民と共に生きることに自らの生きがいを見いだしていく。トルストイ主義者という人たちが生まれ、「新しい村」のような共同生活をする人たちまで出てきた。しかし、貴族的な生活しか知らない妻に、それは理解できないこと。著作権を国民に解放しようとする夫に、家族の生活を守るために反対する。 ソフィアの言い分も分からないではない。彼女は『戦争と平和』の原稿を六回も清書し(夫の悪筆を読めるのは彼女しかいなかった)、彼女なりの見解から、かなり書き直してもいる。家庭を持ってから夫が築いた財産の半分は妻のものという、今なら当然の権利を彼女は主張したにすぎない。 面白いのは、そうしたトルストイ夫妻の争いは、当時の最大のゴシップで、家の周りを新聞記者やカメラマンが取り囲み、手回し映写機で映画の撮影も行われていた。今のメディア社会の始まりを目の当たりにする。 八十二歳のトルストイが、最後の家出をこっそりして、誰にも知られないように汽車に乗るのだが、乗客たちはトルストイが家出をしたという記事を読んで、よく知っていたという。情報が大衆の嗜好として消費される社会に、真実はどこにあるのかという興味深いテーマも、そこにはある。原作のジェイ・パリーニ著『終着駅』(新潮文庫、篠田綾子訳)を併読すると、さらに面白さが増す。 「私に十三人もの子を産ませながら、禁欲を説くなんて信じられない」という言葉も、妻としてはもっともだろう。男性たちにとって、最も身近な妻から評価されることは難しい。しかし、社会における夫には別の顔があるのも事実で、今の時代なら、妻にも同じことが言えるだろう。つまり、人間には多くの顔があり、その一つだけをしてその人だとはできない。逆に言えば、多くの顔を持つほど人生の幅が広くなり、それも幸福の一つの尺度なのである。その意味で、トルストイは実に振幅の大きな人であった。 家族と社会のこれから トルストイの理想は、家族を社会に広げることだったとも言えよう。聖人たちの多くは、他人も家族のように扱うことを説いている。もちろん、それは第一に意識の問題であり、自らの家族を保護する立場や責任が消えるわけではない。 晩年を幸福にするには、放置しておくと弱まる家族の絆を手入れし、社会的な仕組みも強化していくことだろう。再選なった菅政権がどんな政策を打ち出すのかにも注目したい。 根源的には、直線的な死生観に基づく社会の中でも、円環的な死生観を獲得することだろう。そうしなければ、運命的な死の恐怖から逃れることはできないからだ。 晩年のトルストイやドストエフスキーが仏教はじめ東洋思想に関心を示していたことも興味深い。
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