東国人の信仰と徳一
会津若松を訪ねた折、磐梯町に復元された慧日寺を見て、東北の人たちの心を培ってきた信仰の一端に触れたような気がした。大同二年(八〇七)に慧日寺を創建したのは、南都法相宗の徳一(とくいつ)である。日本仏教史では、最澄との間で交わされた激烈な「三一権実論争」で知られる学僧だが、当時の東国では徳一菩薩と呼ばれ、仏教を広く庶民に広めた信仰の化主であった。磐梯山に息づく山岳信仰と南都仏教を融合させ、人々に開かれた神仏習合の信仰を東国に根づかせた人なのである。 神仏習合の信仰 日本古来の基層信仰である神道に普遍宗教の仏教を習合させた頂点は空海だとされているが、その空海が彼に宛てた手紙で「徳一菩薩」と呼び、東国の人たちに広く仏法を伝えているのを高く評価している。ちなみに、最澄との論争が最澄の死で終わった後、徳一は空海との論争を始めた。「三一権実論争」は三乗の教えを旨とする法相宗が、一乗を旨とする天台宗を批判するものであり、その視野には真言密教も含まれていた。いわば、平安新仏教に対する奈良旧仏教の改革運動でもあり、その宗論と並行して、東国布教が進められたのである。 徳一の生没年は不詳だが、塩入亮忠は天応元年(七八一)―承和九年(八四二)の生涯としている。最澄より十四歳、空海より七歳年下になる。興福寺と東大寺で学び、二十代の前半で会津に赴き、東国布教の拠点を築いた。 その理由は、国家鎮護を第一に導入された仏教が政権との癒着を深めるのを嫌い、地方に信仰の基を定めようとしたとされるが、時の政権、とりわけ興福寺を氏寺とする藤原氏の意向も働いていただろう。さらに、直接のきっかけは大同元年に起きた磐梯山の噴火だったと推測される。当時の仏教は行基のように建築も含めた総合学問であり、いわば被災地の復興を目的に派遣されたというのが事実であろう。 もっとも当地の復興には東国開発の意味も強かったのは、慧日寺が当初、清水寺として、京の同寺と同じく、坂上田村麻呂が絡んで建立されたことからも明らかである。さらに、磐梯山は東国における山岳信仰のメッカであり、都市の仏教を嫌い山の仏教を目指す徳一にとっても理想的な新天地であった。 何より驚くのは、最盛期の平安末期には「寺僧三百、僧兵数千、寺領十八万石、子院三千八百」という一大門前町に発展し、「仏都会津」を形成したことだ。その後、源平合戦で平家に付いたため滅ぼされ、以後、幾多の兵火によって衰退し、明治の廃仏で決定的となるのだが、むしろ再評価すべきは、縄文時代から続く豊かな風土であろう。徳一の足跡は常陸から筑波、関東一円に及び、多くの名刹を残している。筑波山や大山などに神仏習合の信仰を開いたのも徳一である。 徳一の業績が相続されず、創建した寺の多くが真言宗に変わったのは、後継者に恵まれなかったからである。しかし、彼が論争で明らかにした、天台宗、真言宗の教えは既に南都六宗の中に説かれているとの説は事実であり、仏性論の「三一権実論争」は大乗仏教の本質にかかわる問題として、インドに始まり中国、朝鮮を経て日本に持ち込まれたもので、仏教史的な大きな意味を今も失っていない。
「文明災」の克服 興味深いことに、会津高田は徳川家康の宗教顧問を務めた天台僧・天海の出身地で、慈覚大師円仁が開いた龍興寺で得度している。家康を日光東照宮に祀るに際し、大明神の神号を主張した吉田神道を退け、山王権一神道により大権現とした。神仏習合の系譜が徳一、円仁、天海と会津をベースに繋がっている。 梅原猛氏は原発事故を含む今回の大震災を「文明災」だとして、生活の利便性を求め続ける生き方そのものの転換を提言している。電力不足からの節電も、単なるエネルギー消費の削減なら、生活の縮小だけになってしまう。「足るを知る」文化は、物の不足を心で補い、余りあるものでなければならない。その一端を、宗教は担えると思うのだが。
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