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平成23年11月5日号社説 |
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死者と共にある平和
全国諏訪神社連合大会で披露された「相撲踊り」は、相撲が神事として発祥したことを伝える貴重な民俗文化である。 諏訪大社上社本宮では毎年九月十五日、「十五夜相撲神事」が行われる。記紀神話によると、瓊瓊杵尊の降臨に先立ち、武甕槌命が出雲を支配していた大国主命に国譲りを迫った。大国主の長男・建御名方命は国譲りに反対していたが、武甕槌命と力比べをして敗れ、諏訪まで逃れて王国を築いたとされる。諏訪大社の誕生物語だ。 この力比べにならう神事が古来、諏訪大社の祭礼に行われていて、それが後に「相撲」になったとも言われる。十五夜相撲神事は江戸時代に上社の辻で若者たちが行っていたものが紀元とされ、地元神宮寺区に保存会が結成され、若者たちにより伝承されている。 神仏の加護を願う 大会で講演した小和田哲男氏によると、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名で、駿河今川氏の初代当主・今川範国(のりくに)が浅間大社を篤く信仰していたのには、次のようないわれがある。元弘・建武の争乱で足利尊氏方についた範国が関ケ原の近くで戦っていた時、ふと大将の馬印に「垢取りの傘印」を思い付いた。連戦連勝し、尊氏から駿河守護に任じられた範国が浅間大社にお参りしたところ、巫女が「垢取りの傘印を思い付いたのは、あなたが駿河の守護になるようにと浅間の神がお教えしたものだ」と伝えた。 小和田氏は、「当時の武将たちは単なる武力で戦に勝てるとは思っておらず、神の力を味方にして勝てたと思っていた。また、領民が信仰を寄せる神を信仰することで民に受け入れられようとした」と説明した。それが戦国大名たちの常識だったという。信仰を同じくすることで民と心が通じる、共感を大切にしたのである。 戦国大名の最初ともされる北条早雲が残した二十一カ条の家訓の第一条に「仏神信じ申すべきこと」とある。第五条には神明の加護の大切さを強調している。当時の武将は、武力だけで戦に勝てるとは誰も思っていなかった。 武田信玄は『甲陽軍鑑』で「弓矢は皆魔法にて候」と書いている。戦は魔法みたいなもので、力を付けても勝てるものではない、神仏を味方に付けなければ……との思いであろう。 毛利家の軍旗には「南無九万八千軍神」とあることから、当時九万八千の軍神がいると信じられていたことがうかがえる。上杉謙信が諸神仏を信仰したことは有名で、旗印の「毘」の字は毘沙門天を意味し、兜の前立には飯綱権現の立像の衣装が施されていた。直江兼続の兜の前立の「愛」は、愛宕将軍地蔵か愛染明王から取ったものと思われ、どちらも軍神である。武田信玄は「南無諏方南宮法性上下大明神」の軍旗を用いるなど諏訪大明神を信仰していた。 諏訪神はいわゆる神功皇后の三韓征伐を住吉神と共に加護したと記されているのに始まり、八幡神と合わせて代表的軍神の一つとなる。坂上田村麻呂の蝦夷征伐や元寇の役でも活躍した。とりわけ異国の敵と戦う時に威力を発揮したという。神仏を信じないとされた織田信長でさえ、桶狭間の戦いに出陣する際には熱田神宮で戦勝祈願をした。そして、戦勝した信長が寄進した塀が「信長塀」として同宮に残されている。 敵味方を共に弔う 武将たちは敵を倒せば終わりとは考えていなかった。藤原清衡は中尊寺の建立に当たり「供養願文」で、敵味方の区別なく、さらに動物など生きとし生ける物すべての霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願っている。文禄・慶長の役を戦った島津義弘らは高野山に「日本高麗戦没者慰霊碑」を建立し、犠牲になった敵と味方を一緒に弔ったことはよく知られている。日本人古来の慈悲心が、仏教によってさらに啓発された結果であろう。 戦後日本の奇跡的な復興にも、戦死した者たちに報いる気持ちが大きく働いていたように思う。まさに死者と共にあることによって、この世の平和は保たれることを、私たちはもう一度思い起こすべきであろう。
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