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平成23年11月20日号社説 |
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祈りのある日本に
平清盛・重盛・頼盛・教盛ら平家一門が、その繁栄を願って自ら筆写し、厳島神社に奉納したのが国宝『平家納経』である。当時最高級の絢爛豪華な工芸品で、法華経三十巻、阿弥陀経一巻、般若心経一巻、清盛自筆の願文一巻と、経箱・唐櫃からなる。現物は厳島神社が所蔵し、厳島神社宝物館でレプリカを見ることができる。 清盛は日宋貿易の経済価値に注目し、輪田泊を整備して宋船を瀬戸内海まで引き入れ、福原に遷都して新しい海の時代を開こうとした武将である。開かれた経済感覚を持つ一方で、神仏への深い信仰を持っていたことがうかがえよう。 政治と宗教の見直し 全真言宗青年連盟の大会で記念講演した仏教学者の末木文美士氏は、黒田俊雄の中世仏教「顕密体制論」を軸に、密教の見直しを論じた。戦後の進歩主義的な宗教史では、中世仏教は鎌倉新仏教を中心に語るのが常識だったが、中世史が専門の黒田は、むしろ中核にあり続けたのは密教で、浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗などは、その周辺に小さな集団としていたにすぎないというものだ。 そこで言う密教とは天台密教と真言密教の二つで、しかも、やがてそこから天台系の「山王一実神道」と真言系の「両部神道」が生まれてきたように、古来からの神道を仏教に融合させ、中世神道を生み出したのが密教である。つまり、江戸時代まで続き、日本人の精神性を形成した神仏習合の形成期を主導した思想と言えよう。 また、従来の日本史では、平安時代末期は荘園制度が崩壊し、武士の台頭により、天皇・貴族から武士に権力が移行し始めた時代とされ、平家は貴族化して失敗したので、それを源氏が完成させたとされる。しかし、確かに鎌倉幕府は京都の朝廷とは距離を保とうとしたが、その権威を無視して民を治め、国を守れるとは思っていなかった。それゆえ、源頼朝は守り神として鶴岡八幡宮を祀り、全国に分社を広めたのである。黒田は『王法と仏法』で、中世では王法と仏法は必ずしも別々のものではなく、むしろ依存関係にあったとしている。 神仏の権威を認めなかったとされる織田信長でさえ、桶狭間の戦いの前には熱田神宮に戦勝を祈願しており、豊臣秀吉は死後も豊国大明神となって豊国神社に祀られ、豊臣の世を守ろうとし、徳川家康は東照大権現となって日光東照宮に祀られ、徳川時代の平和を守ろうとした。 そうした政治と宗教とのかかわりは、明治の近代化によって断たれたと思われがちだが、日清戦争に際して明治天皇は、京都にある法華宗真門流の総本山本隆寺の「三宝尊」を、勅使を遣わして大本営に運び、日々戦勝を祈願されていた。大本営が広島に移されると、明治天皇も三宝尊と共に遷られたという。 国家護持の呪術的な仏教の伝統は明治まで続いていたのである。というか、それが明治の近代化を裏から支えたと言ってもいい。宗教を心の中だけに限定しようとする近代的な宗教学では、捉えきれない実態があるのが歴史の真相だ。 末木氏は冒頭、政治学者の丸山真男の密教批判を紹介したが、丸山に代表される進歩主義者により、仏教学をはじめ宗教学も大きく影響されてきた。マルクス主義の衰退、社会主義神話の崩壊により、それからかなり遅れてはいるが、学界においても歴史の実相が語られ始めたのであろう。 復興期の宗教に期待 日本人の霊性の歴史においても、東日本大震災は大きな歴史の節目として記憶されることになるだろう。それまで、「葬式は、要らない」と言っていた風潮が、死者を悼む行為が人々に生きる力を与える事態に、目覚めたからである。事実は合理主義よりも強い。 弔いは祈りでもある。人間は言葉を持ち、祈りを覚えたことで人間になったとも言えるのではないか。祈りが日々の生活を支えてくれることを知った人たちにより、日本は健全さを取り戻していくように思う。 その意味で、被災者への救援活動の時以上に、復興期の日本に宗教者の活躍を期待したい。
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