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平成23年7月20日号[天地] |
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七月九日の土曜日、山形県米沢市で上杉家の史跡を巡った。米沢城跡と上杉神社を中心に整備された市内は美しく、観光客も多かった。目立ったのは上杉家の家祖謙信と中興の祖鷹山の顕彰だ▼関ケ原の戦いに上杉景勝が西軍に付いたため、慶長六年(一六〇一)、景勝は会津百二十万石から上杉氏の執政直江兼続の知行地だった米沢三十万石に減削移封された。さらに寛文四年(一六六四)藩主綱勝の急逝で、半分の十五万石に削られた。当初、家督を継ぐ者がおらず、改易処分の窮地に立たされた上杉家を救ったのは、藩主夫人の父で会津藩主の保科正之だった。吉良義央の子・三郎(母は綱勝の妹)を養子の名目で上杉家に入れ、その届けが遅れたことだけの処分としたのである▼正之がそうした計らいをしたのにはわけがある。明暦四年(一六五八)、正之の側室のおしほ方の子・松姫が加賀藩百二十万石の当主・前田綱紀に嫁ぐことになった。その三年前、正之の側室から継室になったお万の方の子・媛姫が米沢藩主に嫁いでいた。側室の子に嫉妬したお万の方は、江戸上杉藩中屋敷の婚礼後の祝いの席で松姫に砒素を盛る。ところが、松姫の侍女が媛姫の膳と取り替えたため、媛姫が死んでしまったのだ▼名君で知られる正之の家訓に「婦人女子の言一切聞くべからず」と意外な言葉があるのは、その苦い体験の故である。
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