寛仁親王殿下の御遺志
「ひげの殿下」の愛称で親しまれてきた三笠宮家御長男の寛仁親王殿下が六月六日に薨去され、十四日に本葬に当たる斂葬の儀が東京都文京区の豊島岡墓地で営まれました。謹んで哀悼の意を表します。 「皇室のスポークスマン」を自任されていた寛仁殿下は、進んでメディアに登場されて、ご自身のお考えを語られるとともに、障害者支援などの福祉をはじめスポーツ、青少年育成、国際親善の社会活動に尽力してこられました。 残された御声を振り返りつつ、寛仁殿下がその生き方を通して国民に示された思いを考えてみました。
皇位継承は男系で 平成十七年に小泉内閣が「皇室典範に関する有識者会議」を設け、女性・女系天皇を認めるよう皇室典範の改正を進めようとした時、寛仁殿下は「天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、また神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇様を通じて継承されてきたわけです」とし、かつての十代八方の女帝と、同会議が認めようとしている女系天皇とは意味合いが全く違い、「二千六百六十五年間つながってきた天皇家の系図を吹き飛ばしてしまうことだという事実を、国民にきちんと認識してもらいたい」(『文藝春秋』平成十八年二月号)と述べられました。皇統が貴重な理由は、神武天皇から例外なく「男系」で続いて来ているという厳然たる事実にあるとして、女系・女性天皇に反対されたのです。 そして、皇統を守る方法として、「一番真っ当なかたちとしては、GHQによって臣籍降下された一一宮家のなかから、現存しておられるご一家に現職復帰していただくのが一番自然でしょう。(略)そうしておいて、いま一つは現職皇族とお戻りいただいた皇族の方々とのあいだに養子の制度を認めることです」(『皇族の「公」と「私」』寛仁親王・工藤美代子著)と提案し、「将来の天皇は秋篠宮家の悠仁親王である」(前掲書)と断言しておられます。「女性宮家」の創設が論議されている今、改めて寛仁殿下の御言葉を思い起こす必要があります。 さらに、自衛隊の役割を重視される寛仁殿下は、昨年五月、東日本大震災で被災した航空自衛隊松島基地を訪れ、被災者の救援活動に当たる隊員らを激励されています。また、御自身のイギリス留学の体験から、自衛隊トップが海外要人との交流に自信を持って臨めるよう、幹部候補生らにテーブルマナーなど指導してこられました。 伯父である高松宮殿下に連れられ小学生の時からスキーをされるようになり、秩父宮殿下に憧れてオックスフォード大学に留学された寛仁殿下は、帰国後、札幌オリンピックや沖縄海洋博覧会の現場で仕事を担当され、実務能力を遺憾なく発揮されました。 二十七歳の時から本格的に始められた身障者の支援活動では、「健常者にも障害の部分があり、障害者にも健常な部分がある」との考えから、両者の垣根を取り除くことを主眼に活動を展開してこられました。 正直であれ そうした能力と人格を鍛えられたのが高校で応援団長を、大学でスキー部の主将をされた学習院時代です。安倍能成院長に、「勉強はできなくていいから、正直であれ」と繰り返し教えられ、以来、寛仁殿下は色紙には「正直」としか書かれなかったそうです。「昭和二十一年生まれの敗戦ボーイ」と言われる殿下は、がんの闘病記を著されるなど、御自身の生き方を正直に国民の目に開示してこられました。 型破りの生き方をされているようでありながら、「私は古くから、皇族・皇室というものは能動態でなく、つねに受動態でなければいけないと信じて生きてきました。あくまでも国民が要求するもののなかから確実にお国のお役に立つものを取捨選択して実行する」(前掲書)と言われる寛仁殿下の御遺志を忖度すれば、国民としてどのような天皇・皇室を願うかが大切になると思われます。
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