富士山は信仰の山
カンボジアのプノンペンで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で六月二十二日、富士山」(山梨県、静岡県)の世界文化遺産登録が決まった。登録の基準となるのは、世界遺産条約で規定されている「顕著で普遍的な価値」で、富士山に象徴される日本の文化が世界に認められたことを率直に喜びたい。 同時に、江戸時代までは信仰の山として修行のために登り続けられてきた富士山の歴史を見直し、近くで見ても美しい環境を維持する努力を改めて決意する必要がある。そのためには、ある程度の入山制限も避けられない。保存と開発の両立という難問に、両県は果敢に挑戦してほしい。
江戸時代の富士講 富士山は古来より人々の信仰の対象であった。『日本霊異記』は、富士山を開いたのは修験道の開祖・役行者だとする。古神道に仏教が習合し、独自の山岳信仰を形成したのであろう。それが庶民に広がったのは、江戸時代の富士講である。 明治初年の神仏分離以前、富士山の登山道には、本地垂迹説により天照大神の本地仏とされた大日如来坐像などが祀られていた。日本仏教の宗祖とされる聖徳太子が、甲斐の黒駒に乗って富士山に登り、駒ケ岳付近で休息したという伝説がある。それに倣って作られた太子の銅像が、七合目の太子堂に安置されていた。 平安時代の信仰の対象は富士山の神霊・浅間大神(あさまのおおかみ)で、その後、木花咲耶姫命も祀られた。浅間神社は、浅間大神と木花咲耶姫命を主祭神とし、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社とする神社で、日本全国に約千三百社ある。 「富士本宮浅間社記」によれば、第七代孝霊天皇の御代に富士山が大噴火した。これを憂いた第十一代垂仁天皇が、その三年(前二七)に浅間大神をふもとに祀り山霊を鎮めたところ、噴火が収まり、神徳のおかげとして崇敬を集めたという。 富士吉田市新倉(あらくら)にある三國第一山冨士浅間神社は、木花咲耶姫命と大山祇命を御祭神とする。第四十二代文武天皇の慶雲三年(七〇五)に、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祭られたのが始まり。第五十一代平城天皇の大同二年(八〇七)に富士山の大噴火があり、朝廷から遣わされた勅使により国土安泰富士山鎮火祭が斎行され、「三國第一山」の称号と御親筆を賜った。多くある浅間神社の中でも最も古く、富士山に真向かいの神社はここだけ。 富士山を信仰する人たちで作られた集団が富士講で、長崎出身の長谷川(藤原)角行(かくぎょう)が開祖。角行は富士山の人穴で永禄元年(一五五八)に、四寸角の上に千日間の爪先立ち行をして悟りを開いたとされ、富士登山百数十回、断食三百日など数々の難行苦行を行い、百六歳で人穴で入寂した。 江戸中期になると、角行から六代目の食行身禄(じきぎょう・みろく)や村上光清らの活躍で盛んになる。中興の祖とされる食行身禄は享保十八年(一七三三)に、富士山七合目の烏帽子岩で断食入定し、即身仏となった。以来、富士講の信者は急増し、江戸末期には「江戸八百八講」といわれた。 富士講の人たちは月に何度か集まり、掛軸を掛けて本尊とし、拝み箪笥と呼ばれる小さい箱を祭壇にして祈り、神意を占っていた。富士山が山開きを迎える陰暦六月一日から二十一日までの間に、選ばれた代表数人が富士山に登り、山頂の浅間神社に参拝した。 他の人たちは、陰暦六月一日前後、浅草や駒込、高田などに分祀した浅間神社に参詣し、境内の富士塚に登った。江戸には五十カ所以上の富士塚があり、現在でも都内に十カ所ほど残っている。
伊勢講と並んで 上吉田など富士の登山口の町には、御師(おし)と呼ばれる案内人が住んでいた。御師は富士登山者を自宅に泊め、登山前に祭事を行う。最盛期には、上吉田だけで百軒もの御師の家があったという。 富士講の多くは明治の神仏分離や修験道廃止で姿を消したが、関東各地に今も続いている講があり、伊勢講と並んで江戸時代の信仰を知る上で興味深い。
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