復興を支える地域の文化
東日本大震災と津波で壊滅的な被害を受けた「雄勝(おがつ)法印神楽」が、町の人たちの努力と全国からの支援で復興するまでを描いたドキュメント映画「雄勝〜法印神楽の復興」を見る機会があった。多くの人が仮設暮らしで生活の再建もままならない中、人々の心を一つにし、震災の翌年五月に奇跡的な復活を果たしたのである。地域の誇りと絆の象徴である祭りが、復興を支える大きな力になっている。 震災から三年を経て、被災地の復興はまだ進んでいないのに、震災の風化現象が見られ、被災地に足を運ぶボランティアも減少している。息の長い支援活動を継続するには、東北の価値を発見していくことが重要で、室町時代から六百年の伝統がある法印神楽の復興は、その一例と言えよう。
山伏の所作が神楽に 雄勝法印神楽は宮城県石巻市雄勝町に室町時代から伝わる神楽で、旧雄勝町内の各神社の春・秋の祭で奉納されている。出羽三山・羽黒山の修験者により伝えられ、山伏神楽の系統を継ぐ民俗芸能として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。 ちなみに修験には羽黒派と本山派、当山派があり、羽黒派は山形の出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)を、本山派は京都の聖護院を、当山派は京都の醍醐寺三宝院が拠点である。羽黒派は音響が太鼓二人、笛一人で構成され、舞は勇壮・豪快なのが特徴だ。 山や岩に超自然の力を感じ、崇拝してきたのが古代人の信仰で、奈良の大神神社のように、山そのものが御神体の神社もある。それを受け継ぎ、伝来した仏教と習合させたのが修験道で、神仏の背後には山や森がある。 神々に祈りをささげる儀礼の中で、人を依代として神が入り、舞ったのが神楽舞いとして発展したのであろう。天岩戸の前でアメノウズメが舞ったのが神楽の始まりとされる。それが儀式的な巫女舞となり、宮中で舞われていたものが、修験者を通して庶民に伝えられ、神社で奉納される神楽となった。 法印神楽にはお祓いや祈祷の色合いが強い演目が多いという。明治初期の神仏分離で、密教色の強い演目から古事記や日本書紀の神話の物語に変えざるを得なくなったが、舞いの中には修験道の祈祷や行法の形が残っている。 地域には神楽士と呼ばれる、代々神楽を舞う家があり、親から子へと舞いが伝承されている。映画に登場した若者は、教わるというより、先輩の踊りを見て技を盗むことが多いという。また、「舞台に上がると、日常の自分ならしないような動きをしてしまう」のは、まさに神がその場に降り、踊るのであろうか。独特の高揚感があり、神楽を演じることが人々の誇りになっているのがよく分かった。地域の小学校では、課外授業で神楽を教えている。 神楽に登場するのは神話の神々のほか、道化師のような神もいる。神楽士が観客の参加を促すと、飛び入りで見事な舞いを披露する人もいて、神楽士と町の人が一緒に舞台で踊る。それはまさに、神と人とが力を合わせている姿だった。 そんな雄勝町が震災で壊滅的な被害を受け、法印神楽に使う衣装や道具が流され、町の約八割の人が仮設住宅で暮らしているという。ところが、地元で要職を営む漁師は、「日本に住んでいる以上、災害は仕方がない。海を恨む気持ちは一切ない」と言う。 そして祭りの復興に取り組んでいることを知り、支援の輪が広がった。流された面が日本ユネスコ協会連盟の支援で復元されることになり、写真や資料、神楽士の意見を基に、美術品復元の専門家が作った。
津波で流された太鼓が 祭りの復興に取り組む中、奇跡のような出来事もあった。雄勝半島の先にある白銀神社から流された太鼓が、海を隔てた金華山で拾われたのだが、金華山の黄金山神社の御祭神は、白銀神社と同じ金山毘古神と金山毘売神だった。震災が生んだ現代の伝説である。 日本ユネスコ協会連盟では、東北の復興を応援するために映画の自主上映会を呼び掛け、DVDの貸し出しも行っている。
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