サッカーワールドカップで盛り上がっているブラジルのサントス港に、日本人移住者七百八十一人を乗せた移民船「笠戸丸」が初めて入港したのが明治四十一年(一九〇八)六月十八日。これにちなんで昭和四十一年、六月十八日が「海外移住の日」と定められた。以来、この日は、海外へ移住した日本人の歴史や国際社会への貢献などを振り返り、日本と移住先国との友好関係を促進する記念日となっている。
森林農法
そのブラジルで日本人移住者が中心になって開発し、世界の熱帯地域に広まっているのが「アグロフォレストリー(森林農業)」と呼ばれる農法で、ブラジル北東部パラ州のトメアスがその先進地である。
トメアスは昭和四年(一九二九)に、日本人移民四十三家族百八十九人が初めて入植し、戦後のブームに乗りコショウ生産で栄えた。一九六一年には世界のコショウ生産の5%をトメアスで出荷するほどだったという。ところが、六〇年代後半からの病害と水害でコショウの木が壊滅してしまう。本来は多様な植生のある熱帯の森に、単一の樹木を栽培したのが失敗の大きな原因だった。
コショウに代わる作物としてカカオを植えることになり、日陰を好むカカオのために、生長の早いマホガニーやブラジルナッツなどの有用樹木を一緒に植えたのが、森林農業の始まりとなる。日系人農業技術者により、次第に森林農業の技術が確立されていった。森林農業は、同じ土地に多様な作物を栽培し、
その間に木材として売れるような木も植える農林複合経営である。
単一作物に比べて病害虫や価格暴落の危険が小さく、年間を通じ収穫できるので、農家の経営安定にも役立つ。生物多様性の維持にも効果的なことから、自然環境の保全の面でも注目されている。現在、人口約五万のトメアスには約一千人の日系人が暮らしている。
近年、森林農業で盛んになったのは熱帯果実の栽培で、農協のジュース加工場で冷凍ジュースに加工し、健康飲料として米国や日本にも輸出している。森林農業で収入を増やすことができた農家は、日本への信頼を高めている。日系人の農業技術者は、ブラジル人の小農に森林農業の技術を教え、種苗や農機具を貸し出して普及に努めてきた。最近は、ボリビアなど南米諸国へも指導に行っている。
ブラジルで成功した森林農業は、アフリカや東南アジアでも熱帯雨林の保全と地域発展の両立に貢献できる農法として期待されている。従来、アマゾン地域の農家は、森林の伐採や焼き畑での農業で目先の収入を得てきていたが、やがて地力が低下すると収穫量が落ちてしまい、伐採された土地に植林しても、
木が成木になるまで収入が得られないというジレンマを抱えていた。森林農業に注目したブラジル政府は、同技術の国外移転を計画し、
アマゾン隣国の農業研究員を招いて研修コースを実施している。
JICA(国際協力機構)もブラジル政府の要請を受け、森林破壊が進むアマゾン地域での同技術の普及に力を入れている。同研修は第三国に「南南協力」を進める枠組みの一つで、過去の日本の協力に基づいて両国共同で実施され、研修費用はJICAとブラジル政府が折半する。各国から参加した農業研究者は、研修を受けた後、トメアスの優良日系農家で実際の技法を学んでいる。宗教的段階の農業『悲しき熱帯』で知られる世界的な人類学者レヴィ=ストロースは、自然の保護と開発を両立させてきた日本人の自然観に関心を持ち、
そうした日本文明に西洋世界が耳を傾けることで、過度な自然破壊が避けられると期待を寄せている。(川田順造著『江戸=東京の下町から』)収入を得るための農業は経済的段階で、優れた作物作りに熱中するのは芸術的段階、そして作物の気持ちが分かってくるのが宗教的段階の農業だという。
日本的風土で培われた自然観に基づく農業が、熱帯の森で、苦難の末に花開いたのが森林農業と言えるだろう。国土の75%を占めながら荒廃が目立つ日本の山林にも、逆輸入が望まれる技術である。
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