|
|
購読お申し込み・お問い合わせはこちらフォーム入力できます! |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
平成26年3月20日号[天地] |
|
|
|
日本書紀は持統天皇が孫の文武天皇に譲位した記事で終わる。六九七年八月で、文武天皇は同年二月、皇太子に立てられたばかりの十五歳の若さだった。これによって親から子への皇位継承のルールが定まり、兄弟間での争いがなくなったとされる▼持統天皇は当初、息子の草壁皇子を皇位に就けたかったのだが、二十八歳で夭折したため、その子・軽皇子に継がせようとしたのである。この、母│子│孫の三代での統治が、天照大神│アメノオシホミミ│ニニギの三代で実現した天孫降臨に類似していることから、天孫降臨神話は持統天皇の御代の実話を反映したものとの説が有力だ▼文武天皇の后は藤原不比等の娘・宮子で、その子・聖武天皇と光明皇后の時代に、律令制と仏教による国づくりと同時に、藤原氏の権力体制が完成するので、これらを裏で統括したのは不比等だとする説もある▼同時代、新羅では文武王が朝鮮を統一し、六八一年に四十五歳で没していた。ところが、文武王は実は日本に亡命し、文武天皇になったとの説がある。唐の圧力に耐え切れず、王位を息子の神文王に譲ることで、その矛先をかわすのが狙いだったという。奇説だが色々と傍証もあり、当時の緊迫した東アジア情勢を考えながら読むと面白い。
|
|
|
|
|
|
|
|
特集 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
社是 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|