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  5月5日号社説
 

混乱の極みにある死生観

 

 織豊時代に来日したイエズス会司祭ヴァリニャーノの布教報告書『日本巡察記』に、次のような興味深い一文がある。「外面では霊魂の救済があることを民衆に説きながら、仏僧たちの大部分はその胸中で、来世は無く、万物はこの世限りで終わるものと決め、そう信じている」
 これは当時の僧侶たちの生命観、さらには浄土観を、改めて見直させる報告である、と『キリシタンが見た真宗』(東本願寺)の筆者は強調している。筆者とは真宗海外資料研究会で、同書はイエズス会の修道士の書簡や報告書の中から、当時の一向宗の実態を探ったもの。修道士は自らの成果を、同研究会は真宗の優位性を強調しがちなのは否めないものの、実に面白い内容になっている。

 

来世否定の真宗


 一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられて以来、一六四三年の鎖国完成までの百年間に、約三百人の宣教師が来日している。インド、ジャワ、中国を経て、ようやく極東の国にやって来たのである。それまでのアジア諸国に比べ、日本人の識字能力や理解力の高さに驚いた修道士らは、すぐにでもカトリック王国になるのではないかと期待に胸を躍らせた。しかし、彼らの前に立ちはだかったのは仏教、中でも一向宗で、それは人々の心に強固な信仰として根付いていた。そこで、修道士の報告に、一向宗に対する批判が数多く登場することになる。
 「此人(石山本願寺の顕如第十一代門主)は公に多数の妻を有し、又他の罪を犯せども、之を罪と認めず、之に対する崇敬甚だしく、只彼を見るのみにて多く流涕し、彼等の罪の赦免を求む。
 諸人の彼に与ふる金銭甚だ多く日本の富の大部分は此坊主の所有なり。毎年甚だ盛なる祭を行ひ、参集する者甚だ多く、寺に入らんとして門に待つ者其の開くに及び競ひて入らんとするが故に常に多数の死者を出す。而も此際死することを幸福と考へ、故意に門内に倒れ、多数の圧力に依りて死せんとする者あり」
 こうした本願寺の隆盛をもたらしたのが、第八代門主の蓮如だ。庶民と同じ平座で、彼らの悩みを聞き、分かりやすいことばで教えを語った。門信徒に宛てて書いた「御文」は文書伝道の始まり、「おつとめ」の形式は今に続く。敵愾心を燃やしながらも、柔軟な修道士は、一向宗のやり方を取り入れている。
 ところで、冒頭の僧侶の死生観を筆者はどう分析するか。「やはり、『御文』などを通して伝承された、親鸞や蓮如の思想の影響を受けたものである」としている。浄土真宗では阿弥陀如来による浄土での救済を説くが、それは来世ではない。確かに「御文」には、「来世を期待するなどということは、真宗以外の教えでいわれることであり、さまざまな善行によって救われていくことを説く宗派がいうことです。真宗では、ただ真実の信心を起こすことによって阿弥陀如来に救われていくのですから、ことさら臨終の来迎ということを願う必要はないのです」(現代語訳=同書)とある。
 そして、来世を想定しない「今」との関連の中で浄土を理解するのは近代主義的な発想だと批判されているが、前近代の浄土教の僧侶たちも同じように考えていた、と来世否定はむしろ伝統的な考えだとする。

 

さまよえる私たち


 原子力工学の安斎育郎教授が著した『霊はあるか』(講談社ブルーバックス)は、霊を否定する科学者の立場で、それ故の客観性をもって仏教各派に霊に関するアンケート調査を行っている。その結論は、「一三宗一四〇派を超えると言われる日本の仏教においては、いずれの宗派のいずれの僧侶に出会ったかによって、霊に関する理解は極めて大きな隔たりが生じ得ることが示された。すなわち、日本の仏教における霊概念の現状を概括すれば、仏教界全体としては『混乱の極みにある』と言える」。
 まさに、さまよえる死生観の中に私たちは生きている。仏教および諸宗はこの現状をどう考えているのであろうか。

クョスコニョ    [1] 
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