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   5月20日号社説
 

経済を超える倫理を

 

 国民年金が始まったころ、支給された年金の中から祖父母に小遣いをもらうのが楽しみだった。当時は年金といっても孫の小遣い程度の額であったが、貧しい戦後を生き抜いてきた老人たちはささやかな幸せを感じていたものだ。ところが今はどうだろう。
 厚生年金に企業年金をフルにもらえ、加えて個人年金のある高齢者の中には、年金だけで一千万円近い収入のある人たちがいる。もちろん、その過半は本人が現役時代にそれだけ努力したからだが、公的年金だけで三百六十万円以上受け取っている人たちは、もらい過ぎではないだろうか。しかも、優遇税制で所得税は少ない。
 そうした高齢者の中には、子育て世代の子供たちに仕送りしている人もいる。年金の理念は現役世代が高齢者を支える世代間の仕送りだが、それが逆流しているわけだ。
 今や、年金は孫の小遣いどころではなく、生活に必要な財産となっているため、それを削ろうとすると、憲法に保障された財産権の侵害だとして反対される。そうでなくても、投票率の高い高齢者の票を逃がさないため、政治家が彼らの首に鈴を着けることはできない。人口構成からして、給付額を下げるしかないのだが、それを断行すれば政権がもたない。つまり、年金問題は最大の政治問題として、私たちの前に横たわっているのである。
 
 聖と俗は不可分
 聖書には、富める者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通ることより難しいという有名な話がある。お釈迦様も悟りを開くため、その地位と財産を捨てた。宗教の原点を探ると、富と信仰は反比例のように思えるが、これが教団となると、より多くの富を獲得した教団が発展しているのだからややこしい。
 確かなのは、聖と俗は不可分で、俗の支えがないと聖も発展しないことだ。しかし、俗が聖を上回るようになると、やがて聖は力を失い、聖俗ともに衰退していく。歴史的に教団を概括すると、そう言えるのではないか。
 人間の心と体の関係に置き換えてみると分かりやすい。心が常に体をコントロールする関係にないと、正常な活動はできない。オリンピック選手を見ても、肉体や技の鍛錬は、究極的には心の鍛錬である。
 福祉社会の理想を求め、国民皆年金を達成させた四十年前の政治家や官僚たちは、日本人を信頼していたに違いない。福祉国家を操るだけの精神を日本人は持てるはずだと。
 しかし、生活のあらゆる面の価格が上昇した結果、今の日本人は豊かさの中で貧しさを感じながら暮らすという、何とも奇妙な社会をつくってしまった。年金問題はその一端に過ぎない。この出口をどこに求めればいいのであろうか。
 
意外に近い宗教と経済
 総論賛成、各論反対は人間の常で、地球益や人類益を考え人間の欲望をセーブすべきと言いながら、その対象が自分や身内、地域のことになると、内輪の倫理が優先する。
 個人の権利、言い換えればエゴイズムを是とした近代において、それを否定するような倫理を、どうやって生み出し、育てていくことができるのか。宗教にその役割を期待するのは、お門違いであろうか。
 宗教と経済は距離が遠いと思われがちだが、そうではない。資本主義が発達したのはプロテスタントの倫理があったからだし、功徳のある観音様の近くで暮らしたいということで浅草の町は発展してきた。信仰が心を動かし、心が体を動かし、その体の動きが経済につながるのであるから、それは当然のことである。
 歴史上、多くの宗教は経済的に貧しい状況の中から生まれ、教団は互助組織的な意味合いを兼ねていた。今、求められているのは、豊かさの中で、そこから離脱するのではなく、地球益、人類益を求めるような倫理を持った宗教であろう。それが既成宗教のリニューアルなのか、全くの新興なのかは、この際、特に問題ではない。

クョスコニョ    [1] 
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