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平成19年5月5日号社説 |
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朝鮮通信使400周年 今年は、江戸時代に日本を訪問した朝鮮朝(李氏朝鮮)の外交・文化使節「朝鮮通信使」の開始(一六〇七年)から四百年に当たる。それを記念し、日韓の各地で記念行事が開催されている。四月十五日には、ソウル旧王宮の昌慶宮で使節団の正使、副使、従事官など三使の任命式が行われ、正使役の朴振(パク・チン)議員に国王の任命状、国書の伝達などが再現された。同通信使議員交流会長の河村建夫元文科相(衆院議員)など日韓の国会議員らも参加した。四月から五月にかけ、韓国側は釜山を中心に、日本側は通信使が立ち寄った長崎県、山口県、岡山県や彦根市、静岡市などで記念行事が開催される。 活発に文化交流 一九七〇年代の初め、韓国を訪問した時、ソウルの大きな書店に山岡荘八の『徳川家康』が平積みになっていた。韓国では壬辰・丁酉倭乱(イムジン・チョンユウェラン)と呼ばれる文禄・慶長の役を起こした豊臣秀吉は極悪人で、その豊臣家を滅ぼした家康は善人と評価されている。その家康は、江戸幕府を開いてすぐ、戦乱で断絶した朝鮮との国交を回復しようと、通信使の派遣を要請した。 朝鮮通信使の本来の趣旨は、室町将軍からの使者と国書に対する返礼で、一三七五年に足利義満によって派遣された日本国王使に対し、信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まり。当時の朝鮮にとっては日本の国情を探り、倭寇の取締りを要請することも重要な目的で、室町時代には三回派遣されている。 家康が通信使の派遣を要請したのは、何より江戸幕府を国際的に認知させ、諸大名に対する権威を高めるためである。しかし、朝鮮には日本に対する疑念が強かったので、一六〇四年に探賊使(敵国の情勢を探る使者)として来日した僧・惟政(ユジュン)に家康は国交回復の希望を伝え、文禄・慶長の役で日本に連行された儒家や陶工などの捕虜千三百人を帰国させている。これによって朝鮮は幕府を信頼し、通信使の派遣となった。 以後、一八一一年まで将軍の代替わりの祝賀などに十二回派遣されるが、第三回までは捕虜の送還が主目的なので「回答兼刷還使」と呼ばれ、第四回から朝鮮通信使となる。第十二回は財政事情や意義の薄れから、使節は対馬に来ただけだった。 一九〇七年二月に釜山を出発した一行約五百人は、対馬、赤間関(下関)、蒲刈、鞆の浦、牛窓、室津などを経由して大坂に入り、淀川をさかのぼって京都で陸に上がり、以後はほぼ東海道を通って江戸に着いた。近江国では、関ケ原合戦で勝利した後に家康が通った吉例の道で、大名にも許さなかった街道の通行を、特別に許可したことから、この道は今でも朝鮮人街道(野洲市〜彦根市)と呼ばれている。 当時の日本人にとって通信使は、間接的にだが中国文化に触れることのできる数少ない機会。宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、筆談で活発な書や意見の交換がなされ、藤原惺窩をはじめ儒家同士も交流した。広島県福山市鞆町の福禅寺の客殿には、そこから見える瀬戸内海の島々の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝)と賞賛し、客殿を「対潮楼」と名づけたことから、その書を額にして楼内に掲げている。 通信使一行には楽団や芸人も含まれていた。岡山県瀬戸内市牛窓には通信使をまねたとされる子供の唐子踊りが今も残されている。津市では唐人踊りが今も祭りで踊られており、通信使がモデルになった人形や絵馬なども全国各地にある。当時の日本人にとって通信使は興味ある国際体験であり、文化交流だった。 大御所四百年祭 一六〇七年の通信使一行は帰路、駿府で家康に対面している。家康は一行を大歓迎し、幼少のころ親しんだ清見寺(せいけんじ)を宿所にして接待し、五隻の船で駿河湾を遊覧した。同寺には通信使が遺した漢詩や絵画が大切に保存されている。 今年、家康の駿府城入城四百年を記念する「大御所四百年祭」が開かれている静岡市では五月から六月、併せて通信使記念事業が催される。市民主導の実行委員会に在日の人たちも参加し、民間交流の実を上げているのがうれしい。
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