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平成19年9月5日号社説 |
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明治の国づくりと宗教
今春、愛媛県松山市にオープンした「坂の上の雲ミュージアム」を訪ねたのを機に、司馬遼太郎の同名小説を再読した。平成二十一年からはNHKスペシャルドラマとして三年間の放映が予定されている。小説『坂の上の雲』は昭和四十三年から四十七年までの四年半にわたり産経新聞夕刊に連載された。正岡子規と秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟の三人を主人公に、近代国家を「坂の上の一筋の雲」になぞらえ、明治の国づくりを描いている。 明治の若者たち 松山藩の下級士族の家に生まれた秋山兄弟。教師を目指した好古は師範学校に入るが、その後、陸軍士官学校に転じ、フランス留学を経て日本騎兵の創設に携わる。日露戦争では世界最強のロシアのコサック騎兵と対等に渡り合い、勝利に貢献した。貧乏のため弟・真之を寺に預けようとした両親に、自分がお金を稼ぐからとやめさせた思いやりのある兄で、退役後は北予中学校(現在の松山北高校)校長に就任、念願の教育者に戻る。 真之は子規と同級で、松山中学から共に上京、共に文学を志し、大学予備門(後の一高)を経て、真之は海軍兵学校へ、子規は東大文学部へと進む。海軍兵学校を首席で卒業した真之は、日清戦争で通報艦「筑紫」に乗艦し、その後、米国に留学、元海軍大学校校長で軍事思想家のマハンに海戦を学ぶ。この間、米西戦争で米海軍によるキューバの港の閉塞作戦を見学したのが、日露戦争における旅順港閉塞作戦の原点になったという。二人とも元からの軍人志望ではなく、金のかからない学校を選んだ結果の軍人だった。 文学を志した子規は、大学を中退して新聞「日本」の記者となり、俳句や短歌の革新を唱え、新体詩や写生文を試みる。夏目漱石や坪内逍遥にも通じる近代日本語による散文の改革運動で、言文一致の現代日本語の基礎を築いた。 ミュージアムの近くにある秋山兄弟生誕地には生家が再建され、馬に乗った好古の銅像と真之の胸像が庭に立っていた。真之は腹膜炎のため四十九歳で亡くなるが、七十一歳まで生きた好古は馬で学校に通い、最後の言葉も「馬引け」だったという。隣には、好古が子供たちに柔道を教えていた道場があった。 明治維新によって近代国家への歩みを始めたとはいえ、脆弱な日本が欧米列強の植民地となる恐れは十分にあった。そんな国を支えようと、若者たちは自分の人生を国家の命運に重ね、気概を持って専門領域に取り組んでいく。彼らの献身的な努力で日本は急速に近代国家の体裁を整え、列強の支配を免れたのである。同じような若者の群像はあらゆる分野で見られた。 当然、宗教界にもそんな若者たちがいた。例えば、西本願寺の改革を建白し、同寺参政となった浄土真宗本願寺派の島地黙雷(しまじ・もくらい)は岩倉使節団の一員としてヨーロッパの宗教事情を視察した。帰国後、近代国家の宗教の在り方として政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生を図り、真宗の大教院からの分離を促した。また島地は、監獄教誨や軍隊布教にも尽力している。 東京大学でカントやヘーゲルなどの西洋哲学を修めた真宗大谷派の清沢満之(きよざわ・まんし)は、近代思想の批判に耐えうる仏教を提示するとともに、真宗の絶対他力の教えを自らの生き方として示し、近代仏教の確立に大きな役割を果たした。 日蓮宗の田中智学は宗門改革を目指して立正安国会、さらに国柱会を結成し、高山樗牛をはじめ宮沢賢治、石原莞爾など当時の知識人らに多大な影響を与えた。もっとも、その国家主義的な傾向から、戦後は触れるのを避ける傾向が強い。 この国のかたちを いわゆる司馬史観によると、日露戦争後の日本は軍部が独走するようになり、無謀な太平洋戦争を始めたという。それに対する異論も多々ある。いずれにせよ、日露戦争から百年余を経た今だからこそ、近代日本の「国のかたち」をかなり正確に考察することができよう。宗教を含め、その取り組みが必要な時ではないか。
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