自分の国とするために
四月二十九日、「昭和の日」を祝う集いで、「昭和天皇ご巡幸―昭和26年、大和・伊勢路」が上映されたのを見て、出来事は不思議に共振し合うものだと思った。というのも、十八日には雨の吉野路を歩き、二十七、二十八日には伊勢神宮を参拝していたからだ。昭和二十六年というと、九月にはサンフランシスコ講和会議で平和条約が調印されている。昭和天皇の伊勢路ご巡幸は、その奉告のためであった。 「集い」式典後のシンポジウムで桶谷秀昭氏は、日本の戦後は昭和二十年八月十五日ではなく、独立を回復した二十七年四月二十八日からであると強調していた。その意味は重い。
昭和天皇の戦い 福田和也氏の近著『日本の近代』(新潮新書)によると、ゲーテは「教養とは何か」という問いに対して、「自分になること」と答えたという。言い換えれば、自分が何者であるかを知ることで、それには、自分を形成してきた国の歴史を知らなければならない。意識するかしないかにかかわらず、歴史が私を形成してきたからだ。 考えてみると、明治の日本が近代化に成功した最大の要因は、国民の多くが自分の国を自覚したからだろう。それに比べると今は、国民の間で日本の自画像が共有されにくくなったのではないか。ガソリン税や後期高齢者の保険制度をめぐる混乱も、根底にはその問題があるように思えてならない。 桶谷氏の名著『昭和精神史』(一九九二年)は当初、敗戦までで途切れていた。それは「敗戦を境に日本は別の国になった」との思いが強かったからだという。「占領下に徹底的に抵抗しなかった知識人に絶望した」とも語っていた。同氏が重い腰を上げて同書の戦後編を出したのは二〇〇〇年のこと。しかし、それは三島由紀夫の自決で終わっていて、同氏は「それ以降は書くことがない」と言う。 もう一人のパネリスト、佐藤優氏は、外務省で若手の教育を担当していた時、国家観の欠如が大きな問題であることを発見し、北畠親房の『神皇正統記』を勉強させ、成果を上げたという。後醍醐天皇が南朝を構えた吉野をよく訪れるという佐藤氏は、皇統の伝統が途絶える危険があることで、現在は南北朝時代に似ていると発言していた。 二人の発言要旨は次号で紹介するが、重要なことはしっかりした歴史認識を持つことと、変化の最中にある今の社会を正確に見る目を養うことだろう。歴史に根差さないと根拠のないものとなり、現実を踏まえないと空論になってしまうからだ。一年間、『資本論』と西田哲学を並行して読んできたという桶谷氏は、「マルクスは資本主義の分析を進めるにつれて革命思想を捨てている。三巻目になると、資本主義はなかなかよくできていると評価さえしている」と、これまでのマルクス像を変える発言をしていた。 杉浦重剛により帝王学を、白鳥庫吉により歴史学を修め、科学者としての目を持ち、第一次大戦後のヨーロッパを体験した昭和天皇は、日本の国について明確な認識を持っておられた。それ以上に国とご自身とが一体化していたと言った方が適切だろう。マッカーサーが感動したのも、長い歴史を体現した人格に対してである。 占領下という戦争がまだ継続している七年を、国民を背負って戦ったのが昭和天皇であり、しかも、敗者の立場から次第に押し返していかれた。その象徴が、解任されて帰国の途に就くマッカーサーが希望したにもかかわらず、羽田空港に見送りに行かれなかったことだろう。各地をこまめに巡幸され、国民の歓呼の声に笑顔で応えられながら、一方では厳しい戦いをしておられた。 自分と日本を知る 栄光の明治が内包する矛盾が一気に噴出したのが昭和だった。そのため、昭和天皇の大統継承の勅語には、並々ならぬ決意が込められている。しかし、平和主義、国際主義を標榜されながら、開戦、そして敗戦を防ぐことはできなかった。その間、様々な思想が現れ、革命事件も起きた。それらを今の視点から正当に評価し、これからの国造りに生かすことが、今を生きる私たちの役割であろう。それは自分と日本を知るための営みでもある。
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