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平成20年3月5日号社説 |
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昭和天皇の祈り
日本の政治が比較的に安定していたのは、古来から権威と権力の分離が巧みであったからとされる。その権威の最たるものが天皇であり、時の権力者たちは治世に天皇の権威を活用することに努めこそすれ、自ら天皇の位に就こうとはしなかった。皇位簒奪を企図したごく少数の者はことごとく失敗し、今日に至るまで皇室は権威の源泉であり続けている。そうした天皇の権威の主要部分は、天皇が古代から祭祀王であることによると言えよう。本来、そうした側面は近代化とともに失われるものだが、日本では歴代天皇によって継承されてきた。その側面から昭和天皇を論じたのが原武史著の『昭和天皇』である。 生物学の影響も 一月一日の四方拝、歳旦祭に始まり、二月十七日の祈年祭、十月十日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭など、宮中祭祀は数多い。しかし、新嘗祭を除くほとんどの祭祀は明治になってつくられたもので、同じく明治になって建てられた宮中三殿とともに、近代国民国家と日本伝統の天皇制とを組み合わせた結果であった。それらは、明治四十一年になって皇室祭祀令で定められ、明治天皇はまさにそれを体現したような天皇である。 ところが、近代教育を受けた大正天皇、昭和天皇になると、事情は違ってくる。大正天皇が庶民と気さくに話をするような性格で、昭和天皇のご巡幸のさきがけをしたことは、原氏の『大正天皇』に詳しい。昭和天皇は皇太子の時代に欧州を視察するなど啓蒙君主としての教育を受けながら、一方で、戦前、戦後を通じて変わりなく、宮中祭祀に熱心であったことは、歴代の侍従長らが伝えている。 戦後、皇室祭祀令が廃止され、憲法で天皇は国民統合の象徴とされ、政教分離が徹底されると、宮中祭祀は戦前のように公務ではなく、天皇家の私事となった。それでも昭和天皇は、ますます誠実に祭祀を継続した。その姿は、いわゆる天皇の人間宣言は、明治天皇の五箇条の御誓文から日本の民主主義は始まることを述べるのが趣旨であったと語ったように、戦前・戦後の一貫性を示すものでもある。 原氏は、昭和天皇の祭祀に影響を与えた一つに、大正天皇の貞明(ていめい)皇后を挙げている。貞明皇后は大正天皇の病気のこともあって、筧克彦の「神ながらの道」にのめり込み、昭和になると神がかり傾向を強めたという。昭和天皇は一方でそれに抵抗しながら、宮中の女官を大幅に削減したりしたが、大礼(即位礼および大嘗祭)以後は、祭祀に熱心になったという。「臣民一体」の天皇としての自覚を強めたからだろう。 興味深いのは、学問的興味からの生物研究が昭和天皇の信仰を強めたという見方だ。昭和天皇の学友で侍従を務めた永積寅彦は、自然界には一つの秩序があり、「万物を生々化育せられる神の存在をどうしても考えざるを得ない」とし、昭和天皇は「生物学ご研究の上からも、堅いご信仰をお持ちであったと拝察して」いたと『昭和天皇と私』に書いている。昭和天皇に確かめたわけではないが、南方熊楠に寄せる天皇の好意からも、それは推察できよう。 原氏は、「天皇の祈りを本物にしたのは、戦争であった」と述べる。その目的が三種の神器を死守することで、「国民の命を救うことは二の次であった」には同意できない。昭和天皇が終戦を急いだのは、何より国民の命を守るためであった。 そして、敗戦がさらに昭和天皇の信仰を強めたという。原氏は皇祖皇宗に敗戦を詫びる心を強調するが、さらに国民とともに新しい日本をつくっていく思いがある。支配者として乗り込んできたマッカーサーを、徐々に押し返して行ったのは、信仰に裏付けられた昭和天皇の力であった。 家庭のありよう 祈りと信仰を第一とする昭和天皇の姿は、私たちに何を教えているだろうか。それは、日本の家族が本来生きてきたありようである。それぞれの家庭に祈りと信仰の基がなければ、いくら栄えても、やがては滅んでしまう。宗教が語るべき最も大切な内容を、昭和天皇は示されたように思う。
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