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平成22年3月5日号社説 |
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日韓併合100年を超えて
明治の政治外交史が専門で、三十年来、アメリカ、中国、近ごろでは韓国との歴史の相互理解プロジェクトに関わってきた鳥海靖東京大学名誉教授が、最近の講演会で次のような話をしていた。 「日露戦争が日本やロシアの国土で戦われた戦争ではなく、韓国と満州(清国の領土)で戦われたことは客観的事実です。韓国人の立場からすれば、自国の領土を日本軍に蹂躙されたことになります。しかも、日韓併合をしたので、韓国人は日露戦争万歳とは言えません。中国人も同じでしょう。朝鮮半島を勢力圏にしなければ日本の独立は維持できないという判断から、明治政府は朝鮮を支配下に収めた。しかし、韓国の立場からは、それは認め難いことです」 伊藤博文の功績 日韓併合から百年の今年、三・一独立運動が起こった三月一日の「三一節」、その前年にハルビンで伊藤博文を暗殺した安重根が旅順刑務所内で処刑された三月二十六日は、韓国にとって大きな意味を持つ。二月十一日、訪韓した岡田克也外相が、韓国の柳明桓(ユ・ミョンファン)外交通商相と会談した後の記者会見で「併合された側、痛みを覚える側の気持ちを決して忘れてはいけない」と述べたのはそうした歴史を踏まえてのことだ。 初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根は韓国の国民的英雄とされているが、当時、日韓併合を積極的に進めていたのは陸軍を代表する元老山県有朋や桂太郎首相であり、伊藤はむしろ彼らを制御しようとしていた。老齢になってから統監という苦労を引き受けたのも、そのためである。伊藤の死は、逆に併合を早める結果になってしまった。歴史とは皮肉な側面も併せ持つものだが、それによって安重根の評価が低まるものではない。 『伊藤博文』(講談社)で伊藤の全体像を描いた伊藤之雄京都大学教授は、「伊藤の憤りは、イギリス風の憲法を理想とする大隈重信や福沢諭吉、民権派も、ドイツ風を目指す岩倉具視や法制官僚の井上毅ですら、……憲法が簡単にできると思っていたことだった」と述べる。 伊藤は、国柄の近いプロシャの憲法を参考にしながら自分の頭で憲法を組み立て、当時、西欧の最先端の学説であった君主機関説を導入し、明治天皇をそう教育したことが、いわゆる国民宗教を持たない日本が国民国家になれた最大の要因だろう。 明治日本の形成に多大な功績を残しながら、伊藤には政治理念のない斡旋屋のような人物という評価が付きまとう。「箒(ほうき)」とあだ名されたほど多くの女性と関係したことも、メディアに格好の批判材料を与えた。 ところが、伊藤と共に岩倉使節団で明治四年に米国に留学し、帰国後、伊藤家の家庭教師を務めていた津田梅子は、米国のランマン夫人に宛てた手紙で、次のように伊藤を評している。 「彼は自分を宗教心のない人間だと決めつけていたが、私に言わせれば、わけのわからない力(生命の?)といったものを信じていた。彼の多くの言動にはしばしば、信仰と名づけたくなるような途方もない神がかり的なものがあった」(大庭みな子『津田梅子』) 安重根の東洋平和論 興味深いことにカトリック教徒の安重根は明治天皇を高く評価していた。彼が獄中で書いた『東洋平和論』では、まずヨーロッパの侵略性に触れ、中でもロシアが一番ひどいとし、それを破った日本を絶賛している。さらに、日露戦争は韓国の独立のための戦争だったとしながら、その大義を守らず、韓国の独立を侵そうとするのは、伊藤らが明治天皇をだましているからだと論じる。 テレビドラマの「坂の上の雲」や「龍馬伝」に描かれている明治の日本に比べると、今の私たちは知識は確かに増え、外国の事情も理解できるようになったが、決定的に欠けているのは志であり情熱だ。そんな若々しいエートスを取り戻すにはどうすればいいか。バンクーバー五輪でのキム・ヨナと浅田真央の、ハイレベルな金メダル争いに共感する日韓両国民の姿に、意外とヒントがあるのかもしれない。
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