祭りで地域の再生を
収穫の秋、各地の神社では例大祭が行われ、自然の恵みを感謝しながら、神輿を担いだり、獅子舞をしたり、地域に伝わる伝統芸能を神に奉納したことだろう。祭りは日常の農作業から解放されるハレの日であり、喜びを爆発させることが許された特別な日であった。 祭りには地域の人々の絆を結ぶとともに、子供たちの成長を促す役割もある。子供なりの役割を与えられ、大人の振る舞いを見ながら、地域社会での生き方を学習していく。そうしたコミュニティーの弱体化が、地方も含めて恂ウ縁社会揩ェ広がり続けている、今の社会の大きな問題だろう。
これからの「正義」 マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)は米国ハーバード大で履修者数が大学史上最多という、同教授の政治哲学の講義録をまとめたもの。この八月に来日し、東大でも特別授業を行った。人気の秘密の一つは、答えの難しい問いを発し、学生と対話しながら講義を進めること。例えば、過去の世代が行ったことに我々は責任があるのかどうか、など。 建国の歴史から、米国民が「正義だ」と考える基本は、ベンサム流の功利主義とカントの人格主義、そして二十世紀の米国を代表するリベラル派政治哲学者ジョン・ロールズの個人の自由な選択である。ところが教授は、道徳的な目標を重視するアリストテレスの立場に近いと言う。そして、ロールズの『正義論』を一九八〇年代に批判し、コミュニティーと伝統からくる道徳的要求を捨象して正義を論じることはできないとしたことから、「コミュタリアン(共同体主義者)」と呼ばれている。 自由主義と個人主義が幅を利かせているように思える米国で、教授のような思想が受け入れられていることが興味深い。市場の道徳的な限界が明らかになったことも大きいだろう。これ以上社会格差が広がると、国としての連帯の維持が困難になるかもしれないからだ。オバマ大統領はケネディ大統領とは違った形で精神的なメッセージを投げかけ、国民の連帯感を取り戻そうとしている。 教授によると、米国の政治思想はジェファショニズム(共同体的自己決定主義=共和主義)とハミルトニズム(自己決定主義=自由主義)の間を振幅しているという。ややこしいのだが、リバタリアニズム(自由至上主義)は自由主義ではなく共和主義の伝統に属する。共同体が空洞化しているため、共同体的自己決定を選ぶか否かも、自己決定にゆだねられているからだ――というのは、同書カバーの宮台真司氏のコメント。 日本では検察の不祥事で「正義」が揺らいでいるが、日常生活において、私たちも自分なりの正義に基づいて判断を行っている。市民として正義の判断が求められるのが裁判員制度だ。もっとも、何が正義かは、その人の歴史と属しているコミュニティーによって異なるため、対話能力が必要となる。著者が対話を重視するゆえんだ。 ロールズに至るまでの思想家は、政治から道徳を切り離す価値中立の立場を重視したが、実際の人間の判断が何らかの道徳的信念に基づいて行われている以上、それは幻想にすぎない。 むしろ、公の場で理性的な議論を積み重ねて、道徳と政治を結んでいく手法こそ、これから重要になるであろう。 対話技術の向上を 日本社会は米社会を十年遅れで追いかけていると言われる。そうでなくても、地域社会の喪失は先進国共通の悩みだ。しかし、共同体の中で生きる人間の本質が、そう簡単に変わるわけではない。要は、社会の変化に対応するだけの技術を、まだ私たちが獲得していないことが問題なのではないか。 そう考えると、教授が披露した対話能力に改めて感心する。宗教界など権威的な社会を見て感じるのは、対話能力の弱さだ。パターナルなやり方に慣れてしまっているからかもしれない。 人々が共同する目的は、一人ひとりの人格を認め、高め、その能力を発揮させ、幸福度を高め合うことにある。そう考えさせられる今年の秋だった。
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