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平成22年5月20日号社説 |
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岡山・福井の旅から
五月十五日、福井県小浜市を訪れ、小浜湾の東側に突き出た内外海(うちとみ)半島を巡る遊覧船に乗った。花崗岩が日本海の荒波に削られ、奇岩・洞門・洞窟が続き、新緑の山から海に流れ落ちる滝など豪壮な景観を満喫した。船内放送で語られていたのが、遷都千三百年祭で沸く平城京とのつながり。中国大陸・朝鮮半島からの船が小浜に上陸し、そこから奈良を目指したという。シルクロードの日本上陸地の一つが小浜だった。 小浜の鵜の瀬では三月二日に「お水送り」が行われる。その水は、十日かけて東大寺の「若狭井」へたどり着くと言われ、この「お香水」を使って、東大寺の伝統行事「修二会(お水取り)」が行われる。そんな縁から昭和四十六年、小浜市と奈良市は姉妹都市になり、活発に交流している。 和気清麻呂 八日は、岡山県和気町の和気神社を訪ねた。日本一の藤が一週間遅れで満開になったと聞いたからだ。和気氏の氏神であり、境内には日本を代表する彫刻家、朝倉文夫作の和気清麻呂像がある。その険しい表情は道鏡をにらんでいた。小森成彦宮司によると、像の顔は同宮司の父・一郎師がモデルという。 和気町は岡山県東部にあり、南部の真備(まび)町には吉備真備が生まれている。平城京で活躍した二人の偉人を輩出し、さらに吉備王国伝説もある岡山は興味が尽きない。 清麻呂も真備も地方の豪族に生まれ、都へ出て活躍した。真備はNHK四月のドラマでも活躍したので、ここでは清麻呂を取り上げよう。清麻呂というと道鏡事件で皇統を守ったことが有名だが、彼の本分は技術官僚として都のインフラを整備したことにある。政治や宗教に深入りせず、自らの技術で淡々と国づくりに貢献した、テクノクラートの原型とも言えよう。 清麻呂の原点は、備前国藤野郡(和気町)の豪族に生まれ、父祖らが治水・利水に苦労する姿を見ていたことにある。和気氏の祖先は第十一代垂仁天皇の第五皇子・鐸石別命(ぬでしわけのみこと)で、仲哀天皇の忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱を鎮圧した功で藤野郡の郡司に任じられた。当時、地方豪族の子弟は、男子は舎人、女子は采女として朝廷に仕えるのがならわし。清麻呂の姉・広虫は光明皇后の采女となり、やがて中宮職の葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚。清麻呂は近衛府の武官を経て土木官僚となる。 清麻呂の最大の仕事は、大阪府北部から兵庫県東南部を流れる神崎川と淀川を直結させ、難波から平安京への舟運を可能にしたことだ。桓武天皇の時代になると清麻呂は実務官僚として重用され、長岡京から平安京への遷都を進言し、自ら造営大夫として活躍する。 平城京は仏教理想に基づいて築かれた都だが、清麻呂は地方豪族の経験から、都市の要は水と物流だと考えていた。藤原京から平城京へ、さらに長岡京を経て平安京に遷ったのも、それが最大の理由だろう。 国の指導者には現実を正しく認識し、着実に実行する気力が必要とされる。首相になってから抑止力の重要さを知ったのでは遅過ぎるのだ。もっとも、そんな首相を間接的に選んだ国民の責任も大きい。 小浜から京都に通じる道が有名な「鯖街道」だ。琵琶湖の舟運も活用された。物流に乗って仏教や文化財も往来し、小浜は信仰深い地となった。北近江から北陸は浄土真宗が根付き、やがて一向一揆が織田信長など戦国武将を悩ませることとなる。 広虫とお初 五月の旅で興味を覚えた女性が二人。広虫とお市の方の二女・お初だ。広虫は夫と共に孤児を救済したことで知られる。これは、間近に仕えた光明皇后の様々な救済事業を見ていたからだろう。 お初は近江の京極高次に嫁ぎ、大津城を経て小浜城に住み、最後は讃岐の丸亀城に移った。姉のお茶々(淀殿)は豊臣秀吉の、妹のお江(ごう)は徳川秀忠の妻として自由に動けない中、お初は徳川方と豊臣方の間で斡旋役として働いている。来年のNHK大河ドラマの主人公はお江だが、小浜を愛したお初にも注目したい。
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