歴史の学びを生きる力に
二月十一日が「建国記念の日」と、間に「の」が入っているのは、「建国をしのび、国を愛する心を養う」国民の祝日として定められた昭和四十一年当時の政治的妥協による。自民党議員らは議員立法として戦前の紀元節の日を「建国記念日」として制定する法案を昭和三十二年に出したが、野党第一党の社会党などの反対で廃案にされ、以後、九年間の対立を経て、「建国されたという事象を記念する日」とも解釈できるようにして成立したのである。二月十一日とすることは、有識者の審議を経て決められた。
唯物史観からの脱却 同日は初代の神武天皇が東征の後に大和を平定し、橿原宮で即位したとされる日である。根拠となる史料は後の世に書かれたものであり、物証は難しいことから、古代史家の間で異論があるのは当然だが、社会党などが建国記念日の制定を反動的だと反対したのは、彼らがマルクス主義の唯物史観に拠っていたことが大きい。それは当時の歴史学界や言論界にも強い影響力を持っていた。唯物史観に拠れば、神武天皇は実在せず、また古代は奴隷制の時代で、誇るべき何ものもなかったのである。 唯物史観が戦後日本の支配的な風潮になったのは、六年八カ月に及ぶGHQ(連合国軍総司令部)の占領統治が、日本人に戦争への贖罪意識を植え付けることを目指し、日本民主化の名の下、共産主義者との不思議な協力で進められたからである。例えば、日教組などの組合結成をGHQが支援している。そのため、敗戦による呆然自失の精神状態の国民に、共産主義思想が急速に蔓延してしまった。 その後、冷戦の激化により国際環境は変わったのだが、国民の思想状況が変化するには時間を要し、戦後二十一年、独立回復後十四年を経て、ようやく建国記念の日が制定されたのである。 唯物史観が人々を魅了したのは、歴史の法則性を示していたからである。今からでは信じられないが、旧ソ連や北朝鮮、文化大革命の中国さえ、理想の社会のように称えたマスコミや有識者がいた。世界的にはソ連崩壊で唯物史観は根拠を失ったのだが、東アジアでは今でも、形を変えて共産主義が生き残っていることを忘れてはならない。 その後、歴史学は法則性よりも、厳密な史料批判や物証により歴史的事実を探求することに重点が置かれるようになった。もっとも、日本史教育では、高校の学習指導要領に、「世界の歴史と関連付けて総合的に考察させ、我が国の伝統と文化の特色についての認識を深めさせることによって、歴史的思考力を培い、国際社会に主体的に生きる日本国民としての自覚と資質を養う」とあるように、記憶以上に考えることに重点が置かれている。 今、歴女などの言葉があるように、歴史を学ぶ人が増えている。人の記憶は何らかの意味付けを伴うため、歴史的な出来事も物語の一部として記憶される。文字のない時代は、その物語が語り継がれ、やがて文字を得て有史時代となったのである。そう考えれば、神武即位は、史実以上に物語性の方が歴史的には重要だと言えよう。
国民国家の物語 中国と韓国が日本に対して歴史の見直しを迫るのは、両国が国民国家としての物語を描ききれない、葛藤の裏返しと見ることもできよう。歴史家は日本の影響を冷静に理解できても、国民レベルでは感情が先立ってしまうのは、どの国にも共通している。その舵取りを上手にするのが政治家なのだが。 韓国の人たちによく指摘されるのは、日本人の現代史の知識不足である。それはある面真実で、受験偏重の日本の歴史教育の欠点だろう。幸い、中韓が問題にする史実の多くは近現代のことで、史料を踏まえ客観的に論じることができる。互いの民族の物語を論じ合うことが、「国際社会に主体的に生きる日本国民として」の歴史的思考力を高めることにつながる。 日本が列強との不平等条約の改正を目指し、明治の国づくりに励んでいた時代、中韓には明治維新にならって自国の近代化を図ろうとする勢力もあった。歴史に学びながらこれからの国の在り方を探っていくのが、日本の生きる力となる。
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