戦争と共に語り継ぐ物語
八月には例年のように先の大戦について多くの報道があり、戦争の悲惨さから国を挙げて不戦への思いを新たにする。それはそれで貴重な営みなのだが、同時に忘れてはならないもう一つの物語があったことにも思いを致したい。 戦後、日本が独立を回復した昭和二十六年(一九五一)のサンフランシスコ講和会議で、日本に賠償を請求する意思がないことを宣言したセイロン(後のスリランカ)代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相は、「自由にしてかつ独立した日本の復活」を訴え、釈迦の言葉を引用して「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によって消え去るものである」と演説したのである。
日本を救った名演説 演説でジャヤワルダナ氏は、日本が自由でなければならない理由について、「それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり、日本を保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためである」と述べている。さらに、「私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のある者が、かくすることにより彼らの愛する国々が解放されるかもしれないという希望によって日本人と同調したという、前大戦中に起こった出来事を思い出すことができる」と続けている。 講和会議には、日本の主権制限を目指すソ連が三十二人もの代表団を送り込んでいたため、緊張と不安の中で開会されていた。そうした状況を一変させる名演説で、サンフランシスコ・エグザミナー紙は、「世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と、タイム誌は、「ジャヤワルダナ氏こそ、最も才能あふれるアジアのスポークスマンである」と絶賛している。 ジャヤワルダナ氏はセイロンの最高裁判所判事の息子として生まれ、コロンボ法科大学を卒業して法律家となり、やがて独立運動に加わるようになる。イギリスの植民地下で同国の上層家庭はキリスト教徒になることを強いられていたが、彼が仏教に改宗したのはアナガーリカ・ダルマパーラとの出会いによる。 シンハラ人のエリートの家に生まれたダルマパーラも、幼少期にオルコットの神智学協会に触れ、キリスト教から仏教に改宗している。そのオルコットがスリランカを訪れたのは、仏教の長老キリスト教の宣教師たちと論争し、これを打ち被った一八七三年の「パーナドゥラの論争」に興味を持ったからで、後に彼も仏教徒になった。 一八八九年にオルコットに従って来日したダルマパーラは、日本に倣ってスリランカの独立、近代化を目指すようになり、自ら設立した大菩提会による仏教復興運動と共に独立運動の精神的支柱となっていく。大菩提会に入会したジャヤワルダナ氏は、そうしたダルマパーラの考えを受け継いだのである。 インドが独立したのは一九四七年で、スリランカは翌四八年に独立する。インド独立のきっかけとなったのは、戦前に日本が支援したインド国民軍に参加していたインド人将兵約二万人を、イギリス国王に対する反逆罪で裁こうとしたことにあった。インド人の反乱に手を焼き、イギリスが撤退したことで、スリランカも独立を獲得したのである。こうした経緯から、インド同様スリランカも極めて親日的である。
日本への失望も踏まえ もっとも、アジアの仏教国の中でいち早く近代化に成功していた日本に、インドでの仏教復興への援助を期待していたダルマパーラに対し、当時の日本はそれほど報いてはいない。彼をはじめ日本との提携に活路を見いだそうとしたアジアのリーダーたちの中には、そんな日本に失望した人もいる。日本中心の勢力拡大や、他国の宗教・文化に対する理解不足などがその原因であろう。しかし、あの時代にアジアと共有する希望があったことは忘れるべきでない。それをこれからの時代にどう実現していくかが課題なのである。
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