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平成19年10月20日号社説 |
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今と向き合う感性を
「国宝・彦根城築城400年祭」が行われている彦根城で、開国記念館の特別展「井伊家十四代物語」を見て、舟橋聖一の『花の生涯』を新装版祥伝社文庫で読み直した。井伊直弼を、それまでの悪役から開国の英雄として描いた小説で、一九六三年にはNHK大河ドラマの第一作に選ばれている。娘の舟橋美香子さんが「父の思い出」で、毎日新聞の依頼で井伊直弼を書くことを家族に打ち明けた父に、「何だか怖いわね、水戸の方だっておいでだし、貴方は水戸高出身で水戸が大好きなのに」と母が不安そうに言った、と書いている。以前、経済学の大石泰夫東京大名誉教授が、「東大では右だと言われたが、水戸に帰ると左だと言われた」と話していたのを思い出した。大石教授も水戸高出身だった。 開国の大老 学校の歴史では、井伊直弼は日米修好通商条約を結んだ大老というより、安政の大獄で維新の志士たちを投獄し、水戸藩浪士に桜田門外で暗殺された人として教えられる。明治以降に始まった学校教育なので、どうしても江戸時代は悪かった、後れていたとしがちだ。しかし、幕末の政治情勢をつぶさに見ると、幕府の方が極めて世界の情勢を正しく理解し、現実的な対応をとっていた。 例えば、日米修好通商条約の締結を迫るハリスが、英仏などと異なり米国はアヘンを扱ったことはないと言ったとき、三角貿易で米国が清にアヘンを売りつけていた事実を示し、反論した。当時の幕府には、清やオランダを通して世界の情勢がかなり正確に入っていたからだ。 井伊直弼が孝明天皇の勅許を得ないで条約の調印に踏み切ったのは、一八五七年から六〇年のアロー号事件(第二次アヘン戦争)で清に勝利した英仏艦隊が日本を侵略する危険を感じたからだ。また、鎖国の中でも通商を開いていたオランダからは、日本にとって米国は信頼できる国だと知らされていた。『花の生涯』には保身的な官僚と化した武士の姿が描かれているが、それよりも無知で固陋だったのが京都の朝廷と貴族たちで、直弼の断行がなければ日本は新時代を切り開けなかっただろう。 しかし、直弼が勅許なし調印の責任を老中の堀田正睦や松平忠固に着せ、尊皇攘夷派が巻き返しを図る情勢の中、強権による安政の大獄で治安を回復しようとしたのは歴史的な失点といえる。 病弱な将軍・徳川家定の後継問題では紀州藩主の徳川慶福(家茂)を擁立し、一橋慶喜を推薦する水戸藩の徳川斉昭や松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳ら有能吏僚らを左遷した。さらに、吉田松陰や橋本左内、頼三樹三郎、梅田雲濱などの有為の人材を処刑・獄死させている。そうしたことから、直弼の本質は開国ではないとの見方もある。 直弼が守ろうとしたのは徳川幕府であり、日本という国ではなかったのではないか。もっとも、それが直弼の限界というのは、いささか後知恵にすぎよう。自ら信じる道を真面目に生きたからこそ、歴史を回転させるような場面を創り出した。桜田門外の変により、幕末の動乱が本格的に始まり、八年後の明治維新を迎えるのである。 尊皇攘夷のエネルギーで倒幕を達成した勢力は、その途端に攘夷から開国に転じる。そして、幕府が整えた外国との関係や横須賀造船所などの設備を引き継ぎ、近代国家へのスタートを切ることができた。だから、明治維新はフランス革命のような市民革命ではなく、最後の将軍・徳川慶喜も後に公爵に列せられている。 大衆が求めるもの 舟橋聖一は文壇の枯木趣味を批判して、「健康で公平で、希望にみちた読者は、……もっと芸術的な小説を求めてゐる。しかも、枯れてゐない、水々しい小説を求めてゐる」と述べている。言語として記録されたものだけを大事にすると、みずみずしい事実も枯木のようになってしまう。それは文学の世界だけではないだろう。 大衆が求めているものに目を向け、今の課題に応えようとしなければ、人も組織も後ろ向きになってしまう。現実に向き合う感性を大事にしたい。
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